まさか!自己否定を勧めてる!?

クリスチャンライフ

イエスの挑戦状1、自己否定の勧め⁉︎

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。ルカ92325

「自分を捨て」の「捨てる」のギリシャ語はアパルネオマイπαρνέομαιで「完全に否定する、すなわち、見捨てる、棄権する、否定する」などを意味する言葉です。やはり、イエス・キリストは「自己否定」を勧めているのでしょうか? 聖書は時代にそぐわない、古い教えなのでしょうか?

自己否定は最悪の問題!

今日、「自己否定」している人が多いようですが、イエス・キリストの期待どおりなのですか?

「自分はできない」「自分はダメだ」など、自分ができない人間だと思いこんだ結果、多くの人が苦しんでいます。愛、喜び、平安どころか、自己否定のために辛い毎日を送っているのです。特に完璧さ、誠実さ、正確さを求められる社会の中で、自己否定に陥りがちです。

自己否定は悪影響

「自分自身を嫌う」という自己否定は、人生のあらゆる面で悪影響を及ぼし、放置すると、性格に悪影響を与え、さらに精神的病いに陥る可能性も。

「自分には価値がない」「自分の価値がわからない」「自分自身を信じることができない」そのため、人も信頼することができず、人に頼ることが難しくなり、ますます孤立化してしまいます。

自己否定の原因

子供の頃親の愛を受けられなかった。ほめてもらえなかった。「自分を愛したり、努力する事は無駄だ」と思うようになってしまった。子供でも、大人でも同じです。ほめられる事で、自尊心がすこしずつ養われ、安心感や安定感を得ることができるのです。

しかし、ほめられない事が続くと、自分から人に好かれようと努力しても、「結局いつかは嫌われてしまう」「どうせ報われない」と否定的な思いにとらわれてしまうのです。

「なぜお前だけできない!」「お前はできない人間だ!」など否定的な言葉のシャワーの中で、「自分はダメなんだ」「できないんだ」「できない自分が嫌い」と思うようになります。努力して失敗すると、自己嫌悪に陥ってしまいます。親がほめない、子供の成果を納得しない、さらに高い目標を課せ続けると、「この程度ではダメなんだ」と思うようになります。次第に心がこわれ、無関心な子供となってしまいます。

イエス・キリストが勧めた本当のことは、解放!

イエスは少しも、「自己否定」や「自分を捨てること」や「自分を否定すること」を勧めているのではありません。

むしろ自己否定な生き方から解放されるように勧めているのです。逆に、自己中心的な生き方から抜け出す秘訣を伝えています。考え方、生き方において、しがみついていたものから、解放され、人の意見や評価に振り回されない秘訣です。

「捨てる」と訳されたギリシャ語アパルネオマイπαρνέομαιのもう1つの意味は、「自分の所有物としない」という意味で、イエス・キリストは言われたのです。「自分の」命、「自分の」時間、「自分の」「自分の」ととらわれる所有権を手放すことです。命も時間も能力も与えられたもの。神から与えられたもの。自分のものではないと考えて生きる事です。多いとか少ないとか、優れているか優れていないかなど、全く自分の責任ではないのです。

具体例:マタイの自己否定からの解放

イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従ったそこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。ルカ52729

マタイことレビは、イエス・キリストに従っていこう決心して、将来を保証する自分の仕事をやめました。しかし、その財産を全部捨てたのではないのです。「何もかも捨て」の「捨てる」のギリシャ語はカタレイポーκαταλείπω κατάλείπω「後に残す、残して去る、捨てる、さし置く、(そのまま)保存しておく」などの意味です。自分の価値がわからないと、物質など何かを所有することで安心感を得ようとします。

マタイは実際に捨ててしまったら、その財産を使えません。マタイは持ち家と、今まで築いてきた財産を使って、大ぶるまいをして、仲間の取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちがイエスに会えるように食事に招きました。財産は持ったままですが、使い始めたのです。今までしがみついていた「自分の家、自分のお金、自分の財産」の所有権を手放した上で、「自分の家で」、イエスのために大ぶるました。家も財産もそのままで、自分の所有権を手放し、神のために使ったのです。

「神のため、キリストのために何もかも捨てました!」

かっこいい言い方に聞こえるかもしれませんが、実はそうは求められていない!

むしろ「自分の」という所有権を放棄し、「神のもの」とし、自分は管理者として生きること。一人一人が与えられたものを主のためにどう使おうかと、祈りつつ活用することです。ミナやタラントのように神のために使うことです。不思議なことに、神のために使えば使うほど、祝福も報いも増えていくのです。もともと自分のものなど何も無いのです。裸で生まれ裸で去っていくのですから。

アナニヤとサッピラも、全部捧げたなんて言わなければよかった

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」(使徒54)売却してからも、自分の管理のもとにおいて主のために使っていったら良かったのです。あなたの時間を、お金を、あなた自身も、預かりものとしてあなたが管理しながら、主のために使う。それでいいのです。自己否定することではないのです。

救われた時のものを捨てないで、神のために活用

この世の中の知識、知恵、権力、身分なども捨てる必要はありません。(Iコリント1:26〜27)誇るのではなく、むしろ謙遜に管理者として「どうしたら主によろこばれるか」と活用をするのです。救われた時の状態のまま、神に仕えていくことができるのです。(Iコリント7:17、20)何かに縛られた状態であるなら、自由の身になることを求めて良いのです。(Iコリント7:21)

イエス様は、あなたがしがみついているものから解放されるように、招いています。

一番しがみついているものが、あなたを縛って不自由にしていることが多い。自分自身も体も、預かりもので、管理しているに過ぎないと考えたらどうでしょう。どんなに問題ありの体でも、あなたの責任ではない。神様からの預かりもの。自分のことは自分の責任だと思わなくて良いということです。

欠点も、かけている部分も、不完全さも、神からの預かりもの

それがどうであるからといって、あなたの責任ではありません。与えられた力と知恵の範囲で、預かったものとしてできる範囲で仕えていけば良いのです。与えられていないものに責任はありません。管理者として忠実であれば、もっと与えられもっと沢山のものを任せられるのです。

失うことを恐れる必要などないのです。失敗を恐れる必要もないのです。神のために失うなら、逆に得ていくことになると神が保証してくださっているのです。

神のために生きる事で、失うことも、失敗を恐れることなく、大胆に生きることができるのです。神のために生きて、神のために使っていく結果、失うようで実は得ていくと、神が約束してくださっています。

「イエス・キリストについていく」全く新しい生き方

完全なる自己否定からは、何も生まれてきません。むしろ、欠けている自分、不完全な自分を受け入れることから始まる生き方です。なぜなら、イエス・キリストはあなたの造り主であり、あなたが何者であるかを心底ご存知の方です。その上であなたを受け入れてくださっているのですからです。

だから、人と比べる必要は全くありません。

少しも恐れず、自分でも「ありのままの自分」を受け入れてよいのです。

そして、特徴ある個性豊かな自分を愛することを、少しずつ学ばせていただくのです。

さらに、自分に与えられたものを神のために使って行く事で、神のために生きる事が、何倍も何十倍も受けていく人生だと次第に体験しいくことでしょう。

本当に捨てて良いものの所有権を放棄する

過去の嫌な記憶、失敗の記憶、うまくいかなかった記憶、自分の罪、罪悪感など、もし、イエス・キリストの赦しのもとにあるなら、手放していきましょう。どんな重荷も、イエスの元におろしていきましょう。あなたが本当に負うべきものは多くはないのです。

罪や罪責感の所有権を放棄できる?

放棄する方法は、過去の嫌な記憶、失敗の記憶、苦い記憶、自分の罪、罪悪感などの全てを、イエス・キリストに祈り、話しつくすことです。十字架で赦されたものはもはや、あなたのもではありません。イエス・キリストが担われ裁きを受けられたものですから、すでに赦されているのです。それらを私は手放します。

それでも思い出して苦しんでいるなら、さらに祈ることです。心に平安を神が与えて下さるまで、祈り、祈り、祈ることです。もし、イエス・キリストの赦しのもとにあるなら、神は聖霊を通して神からの平安を与えて下さいます。それが罪や罪責感を手放せた証拠です。

 
今日もウェビチャへようこそ!

「自分を捨てる」のではなく、自分の不必要な所有権を放棄して、神のために生きる生き方を始めてみませんか?余分な重荷やまとわりつく罪を捨て去り、身軽となって「自分らしい新しい歩み」をしてみませんか。「自分に固守する必要がない」「自分にとらわれる必要がない」余分な所有権は放棄して、捨て去って良いのです。そして、新たな自分で神に仕え、生きていける自由さです。

今日新しい生き方に踏み出してみましょう。祝福を祈ります!
 
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