ユダ(2) そういう人は生まれなかったほうがよかった。

聖書、救い
こんなひどい言葉が聖書にあっていいのでしょうか!?
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」マタイ26:24

1. 「あなたはいない方がまし!」

これも実にひどい言葉です。その人の存在を否定しているからです。「自分なんかいないほうがいい!」「死にたい」「生きているのがつらい」と思ったことはないでしょうか?この世界は、うまく適応できないと生きるのがつらくなる社会であり、失敗が許されず、がんばれなくなると脱落するしかないのです。人間関係が複雑で、幸福と思えたとしても、その背後に不幸が張り付いて来ていることしばしです。

決してしてやって欲しくないですが、自分の存在を否定し消すのは可能です。イエスは、「おまえなんか死んでしまえばよい。」と言ったのでしょうか? そのためにユダは結局首をくくって自殺してしまったのでしょうか? そうではありません!

2. 「生まれなかった方がよかった!」

しかし、どう考えてもこれは最もひどい言葉と思います。「生まれなかった方がよかった」とは、誕生を否定することばですから、最も残酷で冷酷な言葉だと思います。誕生からはじまる人生全体、存在そのものを宇宙から跡形もなく消し去ることを意味しています。

「あなた生まれなかった方がよかった」と言われたところで、どのように努力し、頑張ろうとしても、どうすることもできない実行不可能な言葉なのです。誰も過去に戻れないからです。自分が生まれた時点に戻れません。自分の意志で生まれてきたわけでもありません。過去の歴史を変えることは誰にもできないのですから。

3. ユダだから言われても、しかたない!?

ユダは「イエスを裏切って、地獄に堕ちて永遠に苦しむことになるから」「あなたは、生まれなかった方がよかった。」と言われたのでしょうか? 違います!

もし、だれかが「あなたは、生まれなかった方がよかった」と言って、人をそこに追い込むことをしたならば、その人こそが凶悪の根源となるのです。絶対に言ってはならない言葉です。

また、誰からも「生まれなかった方がよかった」とは言われたくないです。ましてや救い主であるイエス・キリストから言われたら、もう、終わりじゃないですか!? 人を救うために来られたというイエスが、そんな意味で言ったのですか? ぜったに違います!

4. ユダも愛され選ばれた!

ユダを十二弟子の一人として選ぶにあたり、他の弟子たちを選ぶのと同じように、父なる神と相談して選びました。徹夜して大勢の追従者の中から、祈り考え抜いたすえに選んだ12人なのでのです。
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。ルカ6:12〜13
イエスはユダの弱さも闇の部分もよく知っていた上で、十二弟子として選びました。他の弟子もそうですが、優秀だからでも、きよく正しく立派な生活をしていたからでもありません。また、役に立つから選んだのでもないのです。裏切ることさえ知っているのに、選んだのです。だれが裏切る可能性のあるものを友としますか?部下にしますか?
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。ヨハネ13:18
過越の食事の間に、ユダの心にはすでにサタンの思いを抱いていますが、それでも他の弟子たちと同じように、イエスは、タオルを腰に巻き、一人一人の足を洗い、ユダの足も洗われ丁寧に拭かれたのです。
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、 ヨハネ13:1〜2
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 ヨハネ13:4〜5

5. 愛は罪をおおうもの

イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。 ヨハネ13:11
ユダや弟子たちが裏切るという、そういった人間の弱さをイエスは十分ご存知でした。イエスは、最後まで「みながきよいのではない」とか、「あなた方のうち一人が」という言い方で、ユダのことを「裏切り者だ」とは言いませんでした。そのために他の弟子たちも、イエスが捉えられるまでわかりませんでした。決して「ユダだ!」とは断罪しなかったのです。最後までかばい、神のもとに立ち返るチャンスを与え続けているのです。

一方私たちは、犯人探しをして、裏切り者を特定し、その者を断罪して、ほっとしているような冷たさと、自分は良い人に属していると思いたいところがあるのではないでしょうか?凶悪犯だけでなく、その家族や、生い立ちまで暴いて、二度と社会復帰できないように社会から抹殺します。あるいは、「あの人が悪い」と裁く側にいて、自分の目の梁に気がつかない傾向があるのです。
は多くの罪をおおう。 Iペテロ4:8は全てのそむきの罪をおおう。 箴言10:12はすべてをおおい、…  Iコリント13:7

6. 冷たい冷酷な言葉が使われた?

「…そういう人は生まれなかった方が良かったのです。」マタイ26:24
冷たい残酷な言葉として聞こえる人もいるでしょう。これを冷酷な言葉として、ユダを見捨てられたのかと思うかもしれません。それは私たちが、神様を冷酷な方だと思っているならその心が投影されているのかもしれません。しかし、この言葉は「深い悲しみを表現する」言葉なのです。ユダのことを思って悲しみ嘆き哀れに思っておられるイエスの言葉なのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」マタイ26:24
イエスが全人類の罪を担われ、十字架につけられて呪われ、身代わりの死をとげられることは、旧約聖書に預言され、その通りに去っていくのであって、ユダはそれに手を貸す必要はなかったのです。イエスはそのユダの裏切りの罪も担われ、代わりに裁かれようとしていたのですから、ユダの罪も、ペテロを始め他の弟子たちの罪も、暗殺計画を立て実行したサンへドリンの罪もかぶって、罰ではなく赦しを与えようとしているのです。

7. 本当の意味はなんですか?

わざわいです」のギリシャ語はオウアイοὐαί 主たる悲しみの感嘆符であり、「悲惨な」「悲しいかな」と嘆きを表すことばです。
また、「そういう人は生まれなかったほうがよかった」とは、「当時のユダヤ人がよく口にした『深い悲しみを表現する』定型句」ということです。直訳では意味が全く異なってしまいます。

「…人の子(イエス)を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」マタイ26:24
こんな冷酷非道な言葉をイエスはユダに対してさえ言う方ではありません。まともにそう思っていたら、一刻も早く訂正してください。問題の聖書の箇所も、イエス様へ思いを理解した上で注意深く訳し直してみましょう。

…人の子を裏切るような者は悲しい!悲しすぎて心が痛い
これならイエス様の気持ちが正しく伝わってきます。ユダが間違った行動に気づいて、ご自身に立ち返るように、祈り心で話している愛の言葉なのです。
ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。ルカ22:47イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。マタイ26:50
イエスを口づけを持って裏切ろうとするユダに対して、「裏切り者!」と言ったのではないのです。ユダを最後までかばい、その罪を覆い、「友よ」と呼びかけています。イエスの心は悲痛な叫びをあげています。イエス様の心が押しつぶされそうな悲しみの中で、ユダをあわれむ眼差しで見つめながら!
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イエス様の愛を前よりもっと理解させていただいたように思います。私たちの狭い心を、何としても広げていただかなければなりません。なんと自己中心で、人のことが理解できない者でしょうか?「人の罪をおおう愛」など持ち合わせていない私たちです。それにもかかわらず私たちの数々の罪を覆ってくださったのです。それが十字架の死でした。十字架の死を持って具体的にあらわされた愛を、今日しっかりと受け取ってください。
あなたも神に愛されて生まれ、イエスの愛を受け取るように招かれているのです。

その愛を受け取って「生まれてきてよかった!」という人生へと、踏み出してください。

きょうも良い1日をお過ごしください!
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コメント

  1. 応為 より:
    記事を読んで心が温かくなりました。やはりユダも愛されていたんですね!

    聖書を読んで見ますと、『裏切る者』の別訳として『引き渡す者』とあります。ずいぶん印象が違う言葉です。(ヨハネ13:2、ヨハネ13:11等)

    結果として裏切ったように見える行為ですので訳も『裏切る』となったのか、そこは不明です。原文はどうなっているのでしょうか?前の記事でも書かれていたように他の弟子でも、一時の恐怖に負けて裏切るような言動をすることはありますし、ユダだけ取り立てて『裏切り』と呼ぶのは気の毒にもなってきます。
    ユダはお金を取り扱っていましたし、割と現実的な性格の人だったのかなと想像します。そんなユダが理想とする”ユダヤ人の王”と、イエスが言われている”王”との(理解の)ギャップに一時的に腹が立ち、結果が十字架刑になるとは想像もしないで『引き渡した』可能性もあります。
    あくまで想像ですが…。
    そうでなければマタイ27:3で「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。」とはならないと思うのです。

    また定型句で思い出したのですが、ルカ14:26(わたしのもとにきて、自分の父、母、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。)の表現もヘブライ的で、Bを強調するために最初のAを完全に否定するという方法ですよね。

    『憎む』、を文字通り取るとここの箇所だけでなく他でも大変な読み違いをする所ですが、ここは神様とのかかわりの前では家族や自分のいのちでさえも二次的な事ですよ、という箇所で…。
    以前家族とここを読んでいて疑問に思い、調べた事を思い出しました。

    いつもありがとうございます!
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