ユダ(3) 人生が無駄に終わる!?

聖書、救い

ユダは「滅びの子」?

「わたし(イエス・キリスト)は彼ら(弟子たち)と一緒にいたとき、あなた(父なる神)がわたしにくださっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子だけです。それは聖書が成就するためです。」ヨハネ1712

イスカリオテのユダは滅びの子だからOK?

ユダは、預言されていたのだから、滅びてしかたないと言っているのですか?

違います!

この箇所の「父なる神がイエスにくださっているもの」とは、「御名」のことではありません。御名は常に単数形で使われます。「父・子・聖霊の御名」は単数形です。(マタイ2819)しかし、12節の関係代名詞 ホス ςは複数形になっていますから、御名ではなく、十二弟子のことを指しています。つまり、

「わたしがこの世において十二弟子と一緒にいた時、彼らを御名の中に(失われないように)保ち、あなたがわたしに与えられた彼らを(敵の手から警戒して)守りました。」ということです。

イエスは、ユダも守りました。

「一人ぐらい守れなくても仕方ない。」のでしょうか?違いますよ!「12人中11人は守れたけれども1人は滅びました。まあいいか。」ということ?とんでもないです!

100匹の羊から1匹の羊が迷い出た時、99匹を牧草地に残しても、失われた1匹を探して歩き救い出されるイエスです。

1/12=1/100=1/493,0000=1/126,000,000=1/7,450,000,000=イエス・キリストの命

「イエスに信頼する者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ316)という父の心を実行するために人となって来られたのです。そして、「一人として滅びないように」と十字架で私たちの罪を完全におおってくださったのです。「罪をおおう」とは、旧約の時代における動物の犠牲による贖いの意味です。

ユダも滅びないように、守られているのです。世界中の中で、たった一人のあなたのために、イエスは命を与えているのです。「一人として滅びず」とは、例外がないのです。もちろん、救いをこばむ人には、強引には押し付けませんが。

「神を冒涜する最大の罪」も赦される!

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。マルコ328

「けがす」とは、ブラスフェーメオー βλασφημέω「冒涜する 」「悪く言う」です。

神やイエス・キリストをどんなに悪く言っても、あなたがイエスを救い主として信頼したなら、最大最悪の罪である「神への冒涜の罪」も赦されるのです。ユダがイエスを引き渡した罪も、もちろん赦されるのです。

イエス・キリストを引き渡そうが、たとえ、裏切ろうが、冒涜しようが、イエスを救い主として心から信頼するなら、罪の赦しをいただけるのです。そのための十字架の贖い、罪をおおう犠牲をイエスがしてくださったのですから。

このままだと人生が「無駄」になる!

「彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子だけ!」

いかにも冷たく言い放たれた言葉に聞こえます。真意はなんでしょうか?

初めに出てきた「滅びる」の動詞ギリシャ語アポルーミπόλλυμι「滅ぼす、失う」中態として使われる時「なくなる」「無駄になる」という意味も加わります。ここでは、中態で使われていますので、永遠の滅びことを言っているのではありません。

なぜなら、現在の時点でも、永遠の滅びに行っている人は一人もいないのです!

間違いないでください。未だにゲヘナは空っぽです。地獄に行っている人は、まだいません。(ハデスには、かなりの人の霊魂が行ってしまっていますが。)

ですから、イエスが弟子たちを、守っても守らなくても、永遠の滅びに至っている人は一人もいないのですから、永遠の滅びを意味することばではないことは明らかです。

真意は、ユダが人生を「無駄にしてしまう」こと

後半の「滅びの子」は、名詞アポーレイアπώλεια「滅び、荒廃、損失、無駄」という意味があります。イエスは、ユダが永遠の滅び=ゲヘナに行くことを示唆しているのではありません。

このままでは「ユダの人生が無駄になる」とユダの未来を心配して言われているのです。イエスは、12人の弟子たちを3年以上寝食をともにしながら、(特定の住むところはありませんでしたが)色々教え、体験させたのです。ユダも他の弟子たちもイエスがメシアであると理解し、信じていたのです。

ユダにサタンが入った?

ユダが引き渡しを計画した時と実行しようとした時の2回、サタンがユダに入り支配されてしまいました。その時、ユダは「失われた者」となってしまったのです。永遠に滅びたのではありません。一時的にです。ペテロがかつてサタンに支配された時、イエスは「引き下がれサタン!」とペテロを面と向かってしかりつけました。悪魔呼ばわりされて、ペテロは腰が抜けるぐらい驚きショックを受けたことでしょう。(サタン=悪魔)

ペテロに言いましたが、ペテロの背後にいるサタンを叱りつけたのです。しかし、決してサタンに乗り移られたのではないのです。ユダもペテロも、悪霊にとりつかれるようになったのではなく、一時的にサタンの手先になってしまったということです。ペテロもそのように叱りつけられた後、イエスの「弟子」としてすぐ受け入れられ、会話されているのです。(マタイ1624)同ように、ユダも弟子から除外されていません。

ユダもイエスがキリスト(メシア)だと!

イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」 ルカ920

知識的には、この時点でペテロと同様、ユダを含めた弟子たち全員が「イエスは神のキリストだ」と理解していたのです。ですから、イエスは「彼らに」誰にも言うなと命じます。なぜなら、イエスが来られた目的をこの時点では、弟子たちはまだ、だれ一人正しく理解していなかったからでした。

いずれにせよ、旧約の人たちは、「イエスをメシア」と信頼することが救いです。特に、十字架以前の人たちの救いはメシアへの待望と信頼だったとも言えます。

信頼されていたユダ

イエスは、十二弟子たちを呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。 それから、神の国を宣べ伝え(ケールッソー)、病気を直すために、彼らを遣わされた。ルカ912 

イエス・キリストから信頼されて他の弟子と同じように、ユダにも力と権威が与えられ、数々の奇跡を体験しました。また、弟子の間でも信頼され、会計を任されていました。お金をごまかしている問題もイエスはご存知でした(ヨハネ126)が、ユダも十字架を通しての救いを受けて欲しいと願っておられたので、指摘もしませんでした。たとえイエスを大祭司たちに引き渡したとしても、イエスの元へ立ち返ることを期待していました。

わたしといっしょに鉢に手を浸した者

主イエスは、「わたしといっしょに鉢に手をひたした者が、わたしを引き渡すのです。」マタイ2623と続けられました。鉢に手を浸した者とは、十二弟子全員でした。しかし、イエスといっしょに「同じ鉢」に手を浸していた者となると、両隣りに位置するヨハネとユダでした。

過越の食事においては、複数の鉢が分散して食卓の上に置かれていました。カルパス(野菜)の儀式として緑色野菜(パセリかレタス)が使われ、鉢には塩水を入れてあり、紅海を渡ってエジプトから解放されたことを記念し、野菜を塩水に浸して食べるのです。どんなに貧しくてもカルパスの儀式だけは守りました。

「裏切る」の2つの日本語の定義 

①約束・信義を破り敵に味方して、元来の味方にそむく。「友を―」

ユダは相手側に寝返ったのでしょうか?そうではありませんでした。イエスを大祭司たちに引き渡す時、ユダなりの目論見があったようです。しかし、事態はがユダの考えているように進みませんでした。

② 人の予期に反する。「世間の期待を―」

イエス・キリストはユダを弟子とする前から、すでにユダの行動を予知していました。したがって、「予期に反する」裏切りはありませんでした。すべてがわかっていましたので裏切れません。「引き渡した」だけです。

「裏切る」と「売る」の箇所をご自分の聖書でしたら「引き渡す」で訂正して、読み返してみると、ユダのイメージがかなり違ってきます。イエスを裏切ったり、売ったりしたのではなく、引き渡したのですから。

「裏切り」は別の単語

ギリシャ語 プロドシア προδοσίαという別の単語があります。これが使われているのは、

裏切る者 プロドテース προδότης  IIテモテ34 

ユダをかばうイエス

イエスを引き渡そうとしているユダが、「ラビ、それは私ですか?」と尋ねると、イエスは、ユダに「いや。そうだ。」マタイ2625

「いや、そうだ。お前だ。」とはいっていない!

「いや。そうだ。」と訳された箇所はギリシャ語では「あなたは言ったよ。」となります。過越の食卓で、12人が「わたしではないでしょうね?」とイエスに伺います。ユダもそのひとりでした。イエスの答えは、ユダだけにわかるように伝えます。

「あなたが言ったよ。」と言われてユダはびっくりしたことでしょう。ユダは何一つ口では言っていません。ユダが心で言ったことをイエスは、読み取られて伝えたのです。

イエスの返答で、噛み合わない会話はほどんど、相手の心の声に応えていることが多いのです。口では平静を装い、別のことを言っていても、イエスは心の声に応えるのです。

ユダはイエスが何をおっしゃられたのかが、わかったのです。他の弟子にバラすように「いや、お前がそうだ。」とは言っていないのです。

罪をおおう愛

最後までユダの名前を出さず、周りに気づかせず、ユダに立ち返るチャンスを与えています。イエスは、ユダが自分で罪に気づくよう、そして、神のもとへ戻ってくるようにチャンスを与え待たれていたのです。愛は罪をおおうのです。 ユダが罪の赦しを体験した証人として、残りの人生を生きて欲しいと願っておられたことでしょう。

ユダの人生が無駄にならない方法

自分をかばい通してくださったイエスのところに、戻っていくことです。どんなに大きな罪を犯したとしても、その人が「イエス様」と名前を呼び、正直に自分の罪を話し(祈り)始めるなら、イエスは、あなたの罪を赦して新しい人生を与えてくださいます。

ユダもそうしたらよかった。もし、そうしていたら、

「私はイエスを銀貨30枚で売り渡したけど、こんな大きな罪を赦してもらえたのです。私も赦されたのですから、あなたが赦されないわけがないのです。主イエスは本当にあわれみに富み、無条件の愛で愛してくださる方です。わたしもあわれみを受けたのですから。」とユダは、多くの人に話したことでしょう。

そうなることをイエス・キリストは期待していたのです。

今日もウェブチャへようこそ!
ユダの人生も、あなたの人生も無駄になりません。無駄にしてはいけません。むしろ、多くの人を救いに導ける人となるのです。そうなってほしいと、イエスは願っておられます。あなたの人生を、無駄にしないでください。人生のリセットはできませんが、人生の失敗も、嫌な苦い思い出も、自分の障害も、罪でさえも、ぜーんぶ益となるのです。人を助けるために、大いに役に立つことができるのです。

希望を持って今日も良い1日をお過ごしください。

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