3つの挑戦状、不可能でしょう!

クリスチャンライフ

命を失う?

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ924

これまた厳しい!イエスについて行くというのは、なんと難しいのでしょうか!

自分の命が脅かされた時に、尻込みしないですか⁉︎

自分の命を天秤にかけられ、命を救おうとしない人がいるのでしょうか⁉︎

この言葉を聞いていた弟子たちはどうでしたか?

イエス・キリストが捕らえられると、保身のために逃げてしまいました。

一番弟子と自認していたペテロはどうでしたか?

命が惜しくて、3回も「イエスなんて知らない」と否定しただけでなく、呪い誓ってまでして、自分を守ろとしました。分かりますよ。誰だって怖い。十字架の処刑で殺されたくない。私も逃げたでしょう。痛い死にかたはしたくない!

弟子たち全員失格者!

残念ながら、弟子たち全員、「自分を救おうとして、それを失った」ということになります。

そうです。イエス・キリストと3年半も寝食をともにして、直接聞いて学んできた弟子たちが、誰一人としてできなかった挑戦状です。では、だれかできる人はいますか?

できている人はいるのですか? 

それが人間の力の限界がそこにあります。

まず、自分のできる限界を知らなければ、イエスに頼ることもしないのです。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分の所有権を放棄し、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。ルカ923

弟子たちへの挑戦状!

ペテロをはじめ弟子たちはみな、イエスに大きな期待を抱いて「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と言い表したのです。しかし、彼らはまだ、大きな勘違いをしていました。まもなくユダヤ人の王となって、ローマの圧政から解放してくださるメシア(キリスト)だと、バラ色の未来を思い描いていたからです。

しかし、イエスは、彼らの期待に反して、王としてではなく、しもべとして人びとの救いのために、ほふり場にひかれて行く小羊のように十字架に進もうとしていたのです。イエス・キリストについて行くことは、十字架に向かうということです。なまやさしい事ではありません。

しかし、弟子たちはとっても安易に「できる」と考えていたのです。そこで、イエスは、ご自分について来るための、3つの挑戦状を与えたのです。

 自分の所有権を放棄すること

②  日々自分の十字架を負うこと

 命を失う覚悟でついてくること

できますか?

日々自分の十字架を負い

十字架とは、はりつけになる縦の柱と、横木です。両方合わせた十字架そのものは、大きく重すぎてとても担いきれません。担わされるのは手を広げて釘付けされるための横木だけです。

「自分の十字架」として、自分が処刑される横木を負って、日々イエスについて行くことが勧められています。行き先は処刑場です。そこで自分も殺されるということを意味しているのです。「死ぬ覚悟でついて来い」と勧められている。イエスについて行くことは、いっしょに処刑されることです。その覚悟はできていますか? 

第一回目の受難告知

「あなたこそ、神の救い主(メシア、キリスト)です。」というの弟子たちの知識的理解を受けて、「受難告知」が始まりました。それは、弟子たちの間違った期待を修正するためです。そして、イエス・キリストが来られた真の目的を知らせるためです。「イエスがキリストだ」とわかった十二弟子の知的告白の直後から、第一回目の受難告知が始まりました。

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受けなければならないのです。長老、祭司長、律法学者たちに否認され、拒絶されなければならないのです。殺されなければならないのです。そして三日目によみがえらされなければならないのです。 ルカ922

十二弟子たちに受難の必然性を伝えます。しかし、頭に入ってきていません。「ぽっか〜ん!」なんのことやら???

イエスの言っていることが、全然理解できていません。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ1616)と素晴らしい告白をしたペテロでしたが、その最初の受難告知の後に、大失態をしでかしてしまいます。マタイは何があったかを伝えています。ペテロは通訳者マルコにも恥ずかしながら正直に自分の失敗を伝えたようですね。マルコ8:32〜33)

するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ162225

この状況と背景の中でこの3つの挑戦状が弟子たちに与えられたことを理解しないで、このご命令だけを取り出してしまうと、この挑戦状の真意がわからなくなります。

弟子たちは誰も、自分の十字架を負ってイエスに従う気持ちがありません。受難について語るイエスを一番弟子を自認するペテロが、イエスを引き寄せて、「受難などあってはならない!」といさめ始めたぐらいです。弟子たちのイエスに従う目的が大幅にずれていたため、「人類を救おうとする」イエスの目的を理解しようとしていません。

二回目の受難告知

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」45しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。ルカ94445

8日以上たって、2回目の受難告知がなされても、弟子たちは「なんとなく、ヤバイ方向へ進みそうだ」と不安を感じつつも、 あえて尋ねたくないという心理が働いています。依然として前々からの期待、自分が思い描く夢にしがみついていたかったわけです。

まもなく、「イエス・キリストがユダヤ人の王となる!」「まもなくローマの苦しい支配から解放される!」「イエス・キリストが王となる時には、右の座に誰がつくことになるだろうか?」「左の座には誰がつく?」

さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。ルカ946

イエス・キリストが、自分たちの思い描く輝く未来に向かっていると、弟子たち思い続け、イエスが王となった後の自分の地位だけを妄想していたのです。「自分を放棄するなど、とんでもない!」むしろしっかりしがみついています。十字架を担うなど関係ない!彼らは浮ついた気持ちでイエスについて行ったのです。このような状態の中で、弟子たちに与えられたのがこの3つの挑戦状でした。

 自分の所有権を放棄すること      日々自分の十字架を負うこと     イエスのために命を失う覚悟でついてゆくこと

どれもむずかしいのです。ものの所有権は放棄できたとしても、自分自身の命の放棄はかなりハードルが高いのです。弟子たちはどれ一つできませんでした。それが彼らの限界でした。人間の意志の限界。熱い思いの限界。肉の限界などを教えるための挑戦状でした。できなくて当然なのです!

今日もし、この挑戦状を受けて立とうと歯を食いしばっているのでしたら、早めに自分の限界を知って、「私にはできない!」と、正直に弱い自分を受け入れてください。その上で100%主に信頼してください。

聖霊なる神に頼るための3つの挑戦状

私たちが聖霊なる神に頼るために、まず、完全に砕かれなければなりません。自分の力で、イエスについて行くことなどできないと、思い知らされ自覚することなしに、聖霊の満たしはないとも言えます。

「無力な自分を発見する」それがとっても大事なのです。

無力なままでいいのです。無力さを自覚するその人こそが、聖霊のご支配を求め祈り、聖霊の力をいただけるからです。それをわからせるための挑戦状です。

復活した主イエスは、誰も責めていません。

鶏が鳴く前に3度知らないと誓って呪ってまで否定したペテロを、イエスは温かい眼差して包み込んでくださったのです。逃げたことを責められた弟子が1人でもいましたか?いません。全員がイエスに従えなかった者たちであり、散り散りに逃げて、ペテロは前の漁師に戻っていました。徴税人に復帰できないマタイは、職を失って仕事が見つからず困っていたことでしょう。

しかし、弟子たちは赦してくださる復活のイエスに出会えたのです。

皆、赦されました。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、全人類のために身代わりとなり、罪の罰を受けられたのですから。ユダの罪のためにも十字架で苦しみを受けられたのです。ユダは期待して、大祭司のところに行ったかもしれませんが、カヤパは何もしてくれませんでした。

しかし、カヤパではなく、偉大な大祭司イエス・キリストのところへ戻ったなら、「あなたの罪は赦された!」とユダを受け入れてくださったことでしょう。

 

今日もウェビチャへようこそ!

どういう意味で、イエスの3つの挑戦状が与えらたか理解していただけたでしょうか?

自分の無力さを徹底的に知らされるためです。そして、聖霊により頼む人生を始めるためです。イエスと寝食をともにした弟子たちは、自分の無力さ限界を知らされました。

聖霊なる神は、私たちがイエスに従うための力を与えてくださる神です。聖霊の力なしにイエスに従うことはできないのです。だから、聖霊が下るまで弟子たちはみんな、エルサレムにとどまる必要があったのです。聖霊に満たされた弟子たちは、見事にあの3つの挑戦状をクリアーして、皆イエスのために殉教していったのです。あの保身に走った弟子たちがですよ!

一人で頑張るのをそろそろやめましょう。その分主イエスに信頼して祈ることを始めましょう。聖霊が書かせた聖書の神のみことばを読み味わい、信頼し、聖霊の力を体験していきましょう。必要と判断される時と場合において、私たちもイエスの「3つの挑戦状」を実践できるように聖霊が助けてくださることでしょう。

今日も自分の無力さを知りつつ、聖霊により頼んでいきましょう!
プッシュ通知を

コメント

  1. 応為 より:
    いつもメッセージをありがとうございます!
    もしかして1番に読めているかも・・と思いながら拝読しました。

    以前調べながら読んでいた際、ルカ9:23の >自分を捨て の”捨て”はギリシャ語でアパルネオマイ、”完全に否定する、見捨てる、否定する”の他に”自分の所有物としない”という意味だと出てきました。
    物も、人生の方向性も、命も、”自分の所有物”だと思っているうちは本当に苦しく、満足があってもまた焦る…という繰り返しのなんだなぁと思います。気づいたらいつの間にか握りしめている、、という感じで、日々反省です。

    ルカ5:28の >すべてを捨てて のギリシャ語カタレイポーは、レビ(マタイ)がイエス様に従う所ですが、ここは”(そのまま)保存しておく、残して去る”というニュアンスで、アパルネオマイとは違いますが、ここはどう解釈したら良いのでしょうか?
タイトルとURLをコピーしました