ご質問:聖書の改ざん?

ご質問コーナー
ご質問:「マタイの福音書17章のところで私の持っているバイリンガルの聖書の英語の方には21節が無いのに日本語訳のほうは21(ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていきません。)とあります。日本語訳にある21節はどういった経緯で付け加えられたのかご存知でしたら教えて頂ければ幸いです!」
とても注意深く聖書を学んでおられますね!
21節は付け加えられたのではなく、もともとあるのがNIVで削られているのが現状です。聖書は写本がたくさんある中に、どの写本を使うかで、その節があるか、なくなるかが決まってしまいます。写本の中でも、あまり良くない写本だと言われいるものがあります。それは、アレキサンドリア写本とバチカン写本です。

アフリカのアレキサンドリアから出た写本、つまりエルサレムから遠く離れたアフリカの地での写本です。それだけでも、その写本がどどれほど信頼できるか怪しいものです。また、バチカン写本もエルサレムから遠く離れたイタリアのバチカンです。太陽崇拝のお膝元です。

どちらもキリストに属している聖書学者からは、相手にされていない写本だと言われています。なぜ、その二つが写本として選ばれたか、ご存知ですか?今回はそれに触れません。この大事な箇所を削るのはおかしい、信頼できる写本ではこうなっていると知っている翻訳家もいました。イエス・キリストにつながっている心ある人たちの努力で( )にあるいは欄外に残してある聖書もあります。

また、救われていない人たちのリベラル神学(神を中心としないで人間の理性を中心とする間違った神学)の影響下にある人たちが、翻訳に関わっているのも問題です。そして、歴代のクリスチャンが1400年も使っていた写本惜しげもなく捨て去りゴミ箱から欠損だらけの写本拾い上げて、翻訳の中心のテキストにした事も許されるべきことはありません。

英語のNIVだけでなく、NASBも問題ありです。読みやすい現代語を使っただけなら良いのですが、問題ありの写本のアレキサンドリア写本を元にしていますので、当然数々の大事な言葉が省略されています。

私たちもぼうっとしていないで、警戒するとともに、み言葉をしっかり調べることを怠らないようにしましょう。でもご心配しないようにしてください。聖書の大元の本文は変えることができないほどたくさんの写本が残されているのです。写本が良くても、どんな翻訳も人のなす事ですから完璧などあり得ません。

私は2017年版の新改訳聖書を買おうとしましたが、いくつかの重要な聖書箇所がきちんと訳されていないとわかったので、買いませんでした。せっかく買ってしまったのに聖書が無駄になったなどと思わないでください。

私は未だに第3版の新改訳聖書を使い、自分で間違い箇所を発見するたびに赤字で直して使っています。ある人は2017年版を、ある人は新共同訳を直しながら使っています。海外にいますから、一緒に聖書を読みあっても色々なバージョンが使われますので、理解しやすくなったり、間違いに気づかせられたりする良い面もあります。

新しい翻訳とか現代訳とか、いかにも時代にマッチし、よりわかりやすくなったかのようなうたい文句でありながら、悪い方向への改ざんがなされているなら、それらは犯罪とも言えます。なによりも、神ご自身が警告しています。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの書と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 啓示録22:18〜19
聖書翻訳にまつわる霊的な戦いが歴史を通じて繰り広げられて来ています。今は、各自が聖書を調べられる良き時代ですから、あらゆる方法で調べることができます。ルターやカルビンの時代よりも聖書を読み調べることができ、世界のあらゆる言語で読むことさえできます。19世紀に発見されたアレキサンドリア写本では、三位一体とイエスの神性がぼかされているのが致命的な問題です。それにもかかわらず、翻訳する時に写本にとして選んで使うのは確信犯であり、神様も赦さないことでしょう。

キング・ジェームズ訳(KJV)やジュネーブ聖書は、マジョリティ・テキスト(ビザンチン)写本に基づき、翻訳がなされました。また、今はとても便利で 無料のアプリ Pocket Sword で 無料の聖書 King James Version を入手することができます。ぜひ、見比べてみることをお勧めします。古い英語ではあり読みづらさはありますが、かなり信頼できる訳本です。それでも別の問題点がありますので、後日改めて書かせてもらいます。

また、「Text us Receptus」Interlinear Greek-English New Testament を私は使っていますが、かなり信頼できる写本からのギリシャ語と英訳です。アマゾンで中古で入手しましたが、特に聖書を深く学びたい人にお勧めです。
新改訳第3版に見られることば問題の箇所を数例をお伝えします。
「主イエス・キリスト」であるべきところが、「イエス・キリスト」が取り除かれて「主」とされたり(1コリント16:22)、「主イエス・キリスト」から「キリスト」が取り除かれて、「主イエス」 とされ(1コリント5:4、16:23)たり、 「主イエス・キリスト」 から「主が取り除かれて」、「イエス・キリスト」 とされ(IIヨハネ1:3)ています。驚きです!そんな箇所がまだまだ、150箇所以上あります。

聖書に間違いがあるなどと思いもしない方にとって、寝耳に水の事だと思います。特に日本人は、教科書に書いてあれば信用してしまう傾向がないですか?聖書が神の言葉であり、権威あるものとサタンはよく知っています。だから聖書のことばを改ざんし、神の言葉を力無きものとしようと触手を伸ばしています。

私たちもボーッとしていないで、み言葉を注意深く読み、調べる努力を怠らないようにしましょう。聖書原本を改ざんすることはできません。しかし、粗悪な写本を使ったり、翻訳者の間違った教理が入りこむ余地があるのです。新しい翻訳とか現代訳とかいかにも時代にマッチし、よりわかりやすくなったかのような謳い文句で、悪い方向への改ざんがなされているなら、それらは大きな犯罪とも言えます。

アレキサンドリア写本では、イエスが神であることを曖昧にしており、いかに粗悪な写本であるかは、次の箇所をチェックするだけでもわかるはずです。大事な言葉だけでなく、大切な文をすっぽりと省略している例をご紹介しましょう。お手持ちの聖書と比較してみてください。このウェブチャで書いている啓示録の聖書のテキストはなるべく注意して訳し直しています。
啓示録1:8の私訳です。
わたしが、アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」と主が言われる。この方こそ、(時を超えて)常に存在し、存在され、来られる方、全宇宙の全権を持つ全能者である。  啓示録1:8(私訳)
ここで、後に来られる地上再臨されるイエス・キリストが神であることを明確に伝えてるのですが、その重要なセンテンスである「初めであり、終わりである。」が欠けているのです。お持ちの聖書は欠けていないですか?

さらに啓示録1・11を見てください。Text us Receptusでもキング・ジェームズ訳(KJV)では重要なイエス・キリストの神性を示している文として、当然そのまま翻訳しています。
わたしが、アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」というのを聞いた。さらに、「あなたが見るものを、1つの巻物に書き留めなさい。そして、小アジアにある7つのエクレーシア(召し出された群れ、集り)に送りなさい。エペソに、スミルナに、ペルガモに、テアテラに、サルデスに、フィラデルフィアに、そして、ラオデキアに。
わたしが、アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。というイエス・キリストの神としての宣言を取り除いてしまっている聖書があるのです。ご使用の聖書はきちんと入っていますか?
この神としての宣言をした方こそ「人の子」(12〜13節)と示されたイエス・キリストなのです。

皆さんも「変だなあ?」とお気付きの聖書箇所はありませんか?一部の人に任せるのではなく、自分たちの目で、そしてたくさんの目で確かめて、お互いにより信頼できる聖書の日本語訳作りをしていきませんか?神様の言葉としての畏敬の念を持って、自分の聖書を正しく原典に近づける手直しをしていきましょう。ぜひ、ウェブチャに発見箇所を教えてください。そして皆さんにシェアできたらどんなに良いでしょうか!?

すでにコメント欄を通じて始まっています。KJVと見比べる作業で、英語力もつきますよ。あるいはできる方は、ギリシャ語やヘブル語テキストと比較お願いします!

今日もウェブチャへようこそ!
聖書は神の言葉ですから、信頼する者に驚くべき力を与え、知恵を与えてくれます。もっともっと聖書の言葉に信頼していきましょう。じっくりと聖書を読み、お互いにしっかりとみことばを観察し、注意深く学びあえると楽しいですね。

聖書が手軽に手に入り読める時代ですが、読まない時代でもあるようです。忙しさとか疲れとか、理由はいろいろあるでしょうが、読む量ではなく、1節ずつでもじっくり味わってください。あれ、変だなあと思ったら、その疑問を大事にして調べてみてください。ウェブチャでは聖書を学ぶ助けができたらと思っています。ご質問もコメントで受け付けていますので、よろしくお願いします。

今日も良い1日をお過ごしください!
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コメント

  1. Masaluk より:
    応為さん、いつもコメントありがとうございます。
    聖書の箇所の打ち間違いを訂正しました。これからもよろしくお願いします。
    イエス様は「よみがえった」のか、「よみがえらされた」のかはとっても重要なことです。不注意な翻訳で重要な真理がぼかされてしまうのはとっても残念です。父なる神が承認する「イエス・キリストの義」によって私たちは義とされるわけですからとっても重要なのです。
    また、イエス・キリストが「聖なる方」であると父なる神からの承認も重要なことなのです。イエス・キリストの父のみこころに完全に従い通した従順と父なる神がその義の証人となってくださっていることこそが、私たちの「義認」の土台なのです。それゆえ、父なり神によって、イエスはハデスからよみがえらされたのです。
    特にイエス・キリストを神と認めないユダヤ人の口を封じるのは、父なる神の承認でありお墨付きですから。
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