「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていきません。」悪霊を追い出すために、祈りと断食が必要と書かれています。やはり断食が必要ではないでしょうか?
マタイ17:21
弟子たちはイエス・キリストによって悪霊を追い出す権威を与えられました。(マルコ3:13〜17 、ルカ9:1 )彼らは、イエスの元を離れて、その権威を使ってみたのです。その結果、たいへん驚くべきことが起こりました。
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」 ルカ10:17悪霊が「イエスの名前の権威」に服従したのです。弟子たちに服従したのではありません。
ここで有頂天になって喜んでいる弟子たちを、イエスはいさめられました。なぜなら、これこそ悪霊のワナだからです。私たちの喜びの根拠を、奇跡や体験や感情に置くようになるとたいへん不安定な歩みになるからです。感情の盛り上がりは大変わかりやすく、うまくいっていると思いがちです、しかしそのあと、足元をすくわれ落とされます。悪霊はたくみに喜びの源をすり替えていきます。成果や結果に注目させ、主イエス様から目をそらせようとするのです。
…悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ルカ10:20「書き記されている」はギリシャ語の時制アオリストで、受動態の受け身です。私が「イエス・キリストが救い主です!」と信頼して祈った時、神によって私の名が天に記載されているです。「天に名前が記された事実」はその時からズッーと今も変わりません。
「わたしたちの国籍は天にある。」ピリピ3:20これが変わらない喜びの秘訣です。
変わらないものに土台があるなら、何が起ころうとブレることなく、感情的な起伏に関係なく、いつも喜んでいられるのです。事実に基づく喜びであり、神の約束のみことばを土台とする喜びです。
悪霊を追い出すことに成功した弟子たちはその後、「悪霊を追い出せなかった」ことによる挫折感を味わいます。途端に彼らの喜びは失せて、しょんぼりしてしまいます。互いに原因がなんであったかと議論していたのです。私たちも知りたいところです。
さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。弟子たちが挫折感を味わっている最中に、律法学者たちから攻撃されましたが、何も反論できないでいたのです。あの喜びはどこに行ってしまったのでしょう。体験に喜びの根拠を置いているなら、同じことの繰り返しになります。
すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」 マルコ9:14〜18
人生において成功体験より、失敗と挫折体験の方が多いではないでしょうか?概して獲得する成功は上り詰めた頂点であり、たどりつくまでの過程では失敗が繰り返されるものです。
霊的世界の序列は明白です。悪霊もサタンも「イエス・キリストの御名の権威」に従わざるを得ないのです。一方、弟子たちが失敗して立ち直れないでいる間に、仲間でない者がエクソシスムに成功していました。弟子のヨハネも面白くありません。
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」 マルコ9:38「イエスの名に権威」がありますから、仲間でなくてもイエス・キリストの名前の権威に信頼して使うなら、悪霊は従わざるを得ません。では、なぜ弟子たちは今回失敗したのでしょうか?その前にもう一つの例をみてみましょう。
…諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。ユダヤ人の祭司長の息子たち七人は、父親が神に仕える祭司たちの代表の祭司長であったのにもかかわらず、彼らは魔除けの祈祷師となって、諸国を巡回しているというとんでもない息子たちでした。彼らはサタンに仕えるサタン崇拝者だったのです。良い意味では霊の世界にたいへん興味があったと言えます。パウロたちが悪霊を追い出している現場を何度も目撃して、やり方がわかったので同じことを真似してみたのです。
使徒19:13〜14
彼らがわかっていたのは表面的なことだけです。イエス・キリストと個人的に関係がなかったのです。イエス・キリストに信頼していませんでした。救われてもいなかったのです。
すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。 このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。 使徒19:15〜17彼らはイエス・キリストを信じたわけでもなく、試しにやってみたのです。サタンも悪霊どももイエス・キリストが神であることを知っています。イエス・キリストを知識で知っているだけでは救われないことがわかります。また、悪霊どもは、イエス・キリストに属する者たちが誰であるかも知っているのです。
祭司長スケワの七人の息子たちは、イエス・キリストに属しておらず、むしろサタンの支配下にいました。悪霊はその人に取り付いたままで、対等に息子たちと話をしています。悪霊にとりつかれた人は悪霊による凶暴さと怪力で、一人が二人を組み伏せ、七人を打ち負かし裸にし傷を負わせたのでした。七人の息子はお節介にも悪霊にとりつかれた人の家に行って、エクソシストの真似事をしてみたお粗末な結果でした。
霊的世界は現実です。悪霊をもてあそぶなら、その代償を支払うことになるのです。力関係も序列もはっきりしている霊の世界ですから、悪霊が七人の息子たちの真似事には当然従うことなどあり得ません。
今日もウェブチャへようこそ!
弟子たちの失敗の原因はなんであったのでしょう?次回それを見ていきましょう。
悪霊の働きは今日も変わりません。同時にイエス・キリストによる解放も現実です。今日でも「イエス・キリストの名前の権威」により解放される方法があると知っていてください。
悪霊とは関係なくても祈りを通して「イエス・キリストのお名前」がどんなに権威あるものかをもっともっと体験していきましょう。
今日も良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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