介護・ターミナルケアで

ご質問コーナー
質問というか、今の私の悩みなのですが、介護の現場にいると医療の限界(特にお年寄りは)ばかりを目の当たりにし、効かない薬を飲み続け、痛い痛いと呻き声をあげて毎日、一秒一秒過ごしてる方が大勢います。

15分置きにナースベルを鳴らされ、すっ飛んで行くと、『苦しい、苦しい!何とかして! 役立たず!』と悪態をつかれます。私には寄り添うことと、祈ることしかできないのですが、こんな時、主なら、手をかざすだけで癒す力があるのに。私にもイエス様の力を分けて頂きたい、そんな気持ちになります。自分の無力さに途方にくれます。そんなとき、どういうふうに心構えすればいいでしょうか?

また、アルツハイマーになられて、完全に元の性格と180度変わってしまった方。そういう方は安らぎもなく、ずっと恐怖や不安のうちに暮らしています。 そんな方にどのように神の言葉を届けることができるでしょうか?

介護の困難

たいへんご苦労様です。人には理解されない人かたならないご苦労と、たくさんのつらい思いが込められたメールを、シェアしていただきありがとうございました。緩和ケアやターミナルケアの最も重要なところで働いておられますから、死に直面した方々の真の姿が浮き彫りにされていることでしょう。そんな方々と向き合ってケアをされるのですから、本当にいろいろな面で大変なことだと思います。私も、今両親の介護をしていた頃のことをあれこれ思い出しています。

介護を必要とされる人たちが抱えている未解決の問題や痛みや苛立ちを抑えられないで、介護される方やナースの皆さんにぶっつけて来られるのですから、困難を覚えられて当然だと思います。それは介護される側の問題ではありませんので、背負い込まないようにしてください。

なぜ、癒しの賜物がない

私も自分の無力さを嫌というほどに思い知らされ、どうすることもできない自分に不甲斐ふがいなさを感じ、自分に苛立いらだ時が多々あります。確かに、イエス様のように、癒してあげられたらどんなにいいでしょうか。

しかし、すでに持っておられるあなたの笑顔とあったかい心で、寄り添い、祈りつつ、触れ合う中で、温もりとともに伝わっていく愛があると思います。一瞬の癒しも嬉しいでしょうが、時間をかけて寄り添ってもらえること、肌の温もりを通して伝わってくるものは、私はもっと嬉しいと思うのです。

痛みのあるところに触れ、さすってやったり、マッサージをしてやったり、手で触れられるだけでうれしいものです。あなたの温もりをと通して、温かい心を感じることができるからです。

両手で触れられて

イエス様も病人によく手を置かれて癒されていました。特に社会的に宗教的に「汚れたもの」として隔離され阻害され、死んだとしてもだれからも触れられず去っていくことになる人たち。人と触れ合うことは一生ないだろうという病人に、イエス様は、あえて手を置かれましたね。

「わたしの心だ。きよくなれ!」と言われるだけで、病気は癒されたのですが、あえて手をおかれる理由があったと思います。

「汚れた私に触れることは、あなたも汚れてしまいます!」と驚きの表情で身を引こうとする病人たちに、イエス様の両手が触れられ、その温もりが、イエス様の両手からじわーっと伝わって来たのです。その瞬間痛みが取れ、皮膚の感覚が戻り、癒されていきました。

癒しの賜物にまさる愛

「癒しの賜物」を持っていない者たちにもできることがあるのです。「癒しの賜物」を持っていないからこそできることがあると思います。手で触れ、さすり、時には時間をかけてマッサージをしたり、その人の傍にいて、その人の愚痴を聞いてあげることは「愛の賜物」なのです。「忍耐という愛」です。

その病んでいる人から、もう愚痴が出てこないまで、聞き続け、深層にある痛みを汲み上げてあげることで、癒されることがあります。霊魂の痛みが体に悪影響を及ぼしていることも、たくさんあるからです。

愚痴を聞いてあげることはとっても大変な働きです。多くの場合、たくさんんの愚痴を聞いている人が参ってしまいます

愚痴はその都度危険ゴミとして処理

私たちは人の愚痴を聞いても、拾わない訓練が必要です。聞いた愚痴は全て、イエス・キリストの十字架まで運ぶのです。「あなたにお任せしました。あなたが処理してください。いや、あなたがすでに十字架で処理してくださいました。感謝します。」とイエス様に祈り、自分の問題として拾わない、持ち続けないことです。危険ゴミとして直ちに処理してください。

拾ったり抱え込んでも、なんの助けにならないばかりか、未処理のまま聞くたびに、嫌な顔の表情と不快感となって、そのうち聞くのも嫌だと拒否反応が出てしまいます。
何も思いわずらわないで、あらゆる場合に、感謝とともにささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 ピリピ3:6

介護者に必須の神の平安

心の苛立ちや不満を持ったまま介護をするなら、表情や扱い方に刺刺とげとげしい思いとともに出て来てしまいます。私たちはそんなに器用ではありません。疲れますし、自分のことにも時間を取らなければなりません。毎日の生活もあります。

心に平安を持ち続けないと、いろいろなところに歪みが出てしまうのです。繕った笑顔を装っているだけだと、心のギャップやアンバランスの埋め合わせを、他のところでしがちです。家庭で子供に当たってしまったりとか、思わぬマイナスの闇を引きずり込むことになります。

愚痴という危険ゴミは、即座にイエス様にお任せしていきましょう。その人のことを覚えながら、その人に代わって、とりなし祈りましょう。
そうすれば、すべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。  ピリピ3:7

罪責感からの解放を

また、どうすることもできない過去の問題を、リセットできない罪責感を、イエス様が十字架で全て負ってくださっていることも、お伝えしたいですね。罪責感からの真の解放を得られるだけで、治る心の病がたくさんあるそうです。

ひょっとしたら父なる神に祈り求める中に、必要とされるなら賜物としての癒しを与えてくださるかもしれません。与えられるかどうかは聖霊の主権によります。でも、「癒しの賜物」よりも「愛の賜物」の方が、はるかにすぐれているものであることを、忘れないようにしたいものです。

愚痴から希望へ

また、愚痴を聞くだけでなく、希望を伝えられるのも、私たちの特権です。人は死で終わるものでないこと。やがて病むことも痛むこともない新しい体に変えられること、若返る希望があります。折を見て伝えられる時に、話してあげてください。

負の力とマイナスのエネルギーに負けないように、絶えずイエス様につながり続け、聖霊から愛をいただいて、お仕事にそして「愛道」に専念してください。

目に見える結果ではない

目に見える結果はなかったとしても、いいんです。イエス様はすべてをご存知で、どんな小さなことも評価さて、良い報いを与えてくださいます。

焦らず、めげず、忍耐をもってお働きください!聖霊の賜物の「愛」は、見返りを求めません。

大変重要な現場での与えられたミッションが実を結んでいきますように祈ります!
あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。イザヤ46:3~4
 
今日もウェブチャへようこそ
つらい時、いつもその現場にイエス様がおられます。介護している者たちが、やがて介護される側になるでしょう。私たちが生まれた時からずっと、私たちを担い、傍にいて励まし続けてくださったイエス様が、最後の最後まで私を背負い続けてくださいます。

イエス様から目を離さないようにしましょう。息を引き取った後も、ずっとイエス様は共にいてくださるのです。この朽ちていく体を使い切って、新しい体を与えられるのです。

その希望を抱きつつ、今日も良い1日をお過ごしください!

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