ご質問:祈りと断食(3) エクソシスムの失敗から学ぶ

ご質問コーナー
なんでも失敗から学ぶことは成功体験よりも大切です。
前回からの続きで失敗の原因を考えていきましょう。なぜ弟子たちは前回悪霊を追い出せたのに、今回失敗したのでしょうか?
ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていきません。」マタイ17:21

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りと断食によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」 マルコ9:29
この種のもの」の 「」(ゲノスγένος)は「種類」「人種」「一族」という意味があります。つまりこの場面で「この種もの」とは、「問題」ではなく、この種の「悪霊」なのです。今まで弟子たちが体験して来た以上に「てごわいランクの上の悪霊」を追い出すのは簡単ではないということです。

弟子たちは「イエス・キリストの名によって出て行け!」と命じたのですが、悪霊は出て行きませんでした。それでがっかりして、どうしてなのだろうということになってしまたのです。「イエス・キリストの名」を使えばすぐに出ていくと勘違いしていました。

今回の悪霊は半端なく手強い悪霊でした。その子を支配し話ができないようにするだけでなく、痙攣を起こさせ、所構わず押し倒したり、泡を吹かせたり歯ぎしりさせるという凶暴な悪霊です。
口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます」(マルコ9:17〜18)
また、とりついて間もないのではなく、「幼い時から」であり、何度も火の中や水の中に投げ込み殺そうとする恐ろしい悪霊でした。そのことをイエス・キリストは全てご存知でしたが、弟子たちのためにあえて、父親に尋ね様子を聞き出しました。
イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。 (マルコ9:21〜22)
エクソシスムは霊的な戦いであり、とりついた悪霊の強さにより戦いが長引くことがあるのです。凶暴な悪霊ほど長く居座ろうとします。出て行かないからといって戦いをやめてしまうのではなく、悪霊がでていくまで、私たちはイエス・キリストの信頼し戦い続けるのです。長期戦になるなら食を取る間もなく、その結果断食をすることにもなるのです。断食は目的ではなく、結果的に起こることです。
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。 マルコ9:19〜20
この場面での大問題をイエス・キリストが指摘されています。

「ああ、不信仰な世だ。」「いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」かなりストレートに「不信仰」を指摘しています。神であるイエス・キリストを目の前にしながら、信頼していないのです。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と父親は、イエス・キリストの力を疑っているのです。

群衆もそうでした。弟子たちも同じで、「イエス様の名前を使ったけどダメだった。なぜだろう?」などと、不信仰のまっただ中にいるのです。「イエス・キリストの名前に」いくら権威があっても、使う側の不信仰が敗北を招いているのです。この悪霊はそれを見抜いているのです。そんな腰抜けの言うことを聞いたら、悪霊の世界の恥さらしになるということです。
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ9:23〜24
信じる者には、どんなことでもできるのです。」これが答えです。父親も群衆も弟子たちもイエスに信頼していなかったために、悪霊は出て行こうとしませんでした。しかし、イエス・キリストが叱りつけると一瞬のうちに霊は叫び声をあげ、出て行ったのです。
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。 マルコ9:25〜27

イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りと断食によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」 マルコ9:28〜29

祈りと断食によらなければ

この祈りを特別な祈りだとし、「異言」の祈りによらなければ悪霊は出て行かないとするのはまちがいです。悪霊は異言の祈りで出ていくのではありません。「イエスの御名による権威」に悪霊は従うのです。「異言の祈りの」が必要だとも、「異言の祈り」の結果悪霊が出て行ったなどとも、聖書のどこにも書かれていません。また、「私の断食」で悪霊が出て行くわけでもないのです。

「祈り」は神様との信頼関係です。祈りの長さ、ことば、回数など関係ありません。大事なのは神様との信頼を深める交わりのです。平行箇所であるマタイの17:20では、イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰あったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
信仰が薄いから」は間違いです。信仰に薄い、厚い、深い、浅いのとかあるでしょうが、イエス・キリストが問題としているのは信頼があるかです。信頼は「ある」か「ない」かです。

ギリシャ語のアピスティアἀπιστία 信頼の否定ですから、無信頼、不信頼、信頼がない、不信仰でもいいでしょう。大事なのはイエス・キリストへの信頼が「ある」ことだと理解できるなら、「からし種」の説明がわかるはずです。

私たちの信頼の度合いの大きいとか、小さいとか求められていないのです。からし種でもいいから「ある」ことが大切です。なぜなら、わたしたちにではなく、イエス・キリストに力があるからです。ブラック・マスタードの極めて小さい種でいいから、イエス様への信頼が極小の生きた種としてあればできると言ったのです。それすらなかった?

私はこの父親と一緒です。「信頼します!不信仰な、不信頼な私をお許しください!」
そう悔い改めつつ、未だに学んでいく過程です。
すると「あなたがたにできないことはありません。」親が子供を励ますような言葉です。イエス様は「あなたにはできるよ!」といつも励ましてくれるのです!

まとめましょう。
悪霊のレベルがあります。私たちの問題も色々あります。
私たちの信仰や祈りや断食に力があるのではない。イエスの名前に権威がある。
1粒のカラシ種の信頼が「ある」ことが大事。
食を忘れるほどの神様との交わりを!

今日もウェブチャへようこそ!
べつに悪霊との戦いでなくてもいいのです。
毎日に直面するいろいろな問題が、あまりにも大きく、自分の無力さ、自分の力、能力、体力、限界を知らされます。その時「イエス様あなたにはできます!」100%信頼して祈るのです。断食をしたら、ますます体力も0%、自分の力も0%になります。100%主イエス・キリストに信頼する!「頼れるのはあなただけです!」とそう言い切れるまでの信頼が持てたらいいですね。

今日も良い1日をお過ごしください!
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コメント

  1. 応為 より:
    ハレルヤ!
    本当にそうですね。blogを読んで、コメントしない訳にはいかない感動に突き動かされました。
    この世の価値観で「信仰」も測られることが多いように思います。信仰が深いとかまだ浅いとか…。でも、イエス様が敢えて「からし種」を例えに出されたのは、大小や深さや信じてからの時間等が問題なのではなく、書かれていた様に『あるか、ないか』のみに焦点を当てられていたのか!!と。
    私も直ぐに主イエス・キリストに信頼して祈りました。
    いつもありがとうございます。
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