鬱、苦悩、苦悶、砂を噛む日々

クリスチャンライフ
昨年の5月から、さらに責任のある立場に置かれた。
引き受けるつもりも、必要も全くなかったが、
1週間ほど悩んだ末に引き受けた。
問題が浮上して来た。

なんでだろう?どうしてだろう?
なんとか解決策はないのだろうか?
なんとか、みなさんが、ハッピーになれないのだろうか?
寝ても覚めても出口の見出せない問題を抱えてた。
今までがそうであったように表面をとり繕ろうとすると、
現実とのギャップはさらに大きくなるばかり。

今年の4月後半から、次第に眠りが浅くなって、
睡眠障害が始まっていた。
5月に入ると食欲が落ち、
食べ物をいくら噛んでも、喉を通らない
味があまり感じられない。
よく噛んでいるはずなのに、食べ物が棘があるように尖っていて、
胃に刺さる感じが続く。
なんだろう?

6月に入ると車を運転するが、交差点で
クラクションを鳴らされ、はっとする。
衝突寸前!
これで2度目だ!

職場に向かおうとするが、たどり着けない。
40分ぐらいの道のりの、後10分ぐらいでたどり着けるのに、
スーパーの駐車場に入り、
今日は行けそうにないと連絡を入れる。

仕事がらみのメールが開けなくなる。
考えがまとまらなくなる。
集中力がなくなる。
疲れがとれない。
身体が重い

単なる体調不良と思っていたのだが、
仲間で同じような症状を訴える人から指摘された。
その人はすでに、カウンセラーの治療を受けていた。
他の仲間からも、
「大丈夫ですか?」
「ずいぶんと痩せたみたいですが?」
「顔色が悪いですよ。」
そう言われても、まだ、体の問題、体調が悪いぐらいに思っていた。

「鬱」
それは、生涯自分には関係のない心の問題だと思っていた。
家族も周りもそう思っていたそうだ。
だから、気づかれなかった。
知識はあっても、体験しないとわからないことがある。

以前より今は、不登校の気持ちがわかる。
出勤困難症を抱える人の気持ちがわかる。
そんな中、守ろうとしていた仲間に解雇通知が!
不当だと思った。

組織によっては、容赦しない!
役に立たない者は首を切られる。
人がどれほど、心血を注いで頑張っているかなど、
見えないものは評価されない。

それでも、4月当初は、新体制で、
より良い職場環境を目指して、頑張ろうと、
同僚たちと、心新たにしていた。
何日も時間をかけ、会議を続け、策をあれこれ練っていた。

どうにもならなことがある。
理解されないこと、
そうは思いたくないと思っていたのが、
いくら正論をつたえても、
理解してくれない人、
理解されない人たちがいるのかもしれない。

どんなに辛いか、どれほどの痛みを抱えているか、
そんなものは測れない。
理解されない。

6月末で、職場を辞した。

それで、私にとっては、あなたがたの判定(評価)、
あるいは、人の日におけること(人間による判定)は、
非常に小さいこと(最も小さいこと)です。
しかし、私は自分を判定(評価)することもしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、
だからといって、それで無罪とされるわけではありません。
私を理解(判定)してくださる方は、主(イエス・キリスト)です。

Iコリント4章2、3節(私訳)
私を裁かない! パウロは自分で自分を判定しないと言ったが、これは大切なことだ。
時として、あれこれ自分を裁いてしまう時がある。
実際悪いところだらけで、
叩けば埃が出るのが人間だ。
だから余計、自分を自分で裁くことはどろぬまになる。

イエス様も裁くためではなく、救うために来たと言われているのに、
自分で自分を裁くことをするのは、間違いだ!
それが結構、苦しく、自分を責めることになる。

私を理解(判定)してくださる方は、主(イエス・キリスト)です。

私を最も理解し、
正しく評価してくださる方、
罪を赦し、神のため、人のためにした、1つ1つに何か報いをしたいと
評価してくださる方が、イエス・キリストだ。

人間がとやかく言うこと、
それは「非常に小さいこと」
最上級の最も小さいこと!
ちっちゃい、ちっちゃーいこと!
私の良き理解者は、イエス・キリスト!


今日もウエブチャへようこそ! ちっちゃーいことにとらわれてしまうのが私たちです。
ちっちゃーいことが大きくなってるんですね。
あなたの良き理解者がいます。
痛みも辛さも全部わかってくれている方がいます。
あなたの涙の1粒1粒を皮袋にしまわれている方です。
このかたに信頼していきましょう。
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