三位一体の神(2) 唯一で三人の独立した実体

三位一体の神
前回の続きとなりますので合わせてどうぞ。
三位一体の神(1) 天地万物の創造
初めに神が天と地を創造した。創世記1:1 これは、聖書の最初の最初、旧約聖書の書き出しです。 これが理解できれば、あなたの人生は最高に良い方向へ変わります! この言葉が言っている事はとてもシンプルですが、とってもたくさんのことを含...

2. 神は唯一(エハッド)だけど、同時に三人の独立した実体、人格である

一人の人間が、父であり、子であり、兄弟であるという三重性ではありません。三つの独立した実体が存在しています。

(1) 父なる神

イエス・キリストは別の実体である天の父に祈りました
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。  マタイ11:25
イエスは、自分の存在は自分自身による自己承認ではなく、自分以外の実体である父なる神によって承認されていると言っています。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。… なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子(イエス・キリスト)があなたがたに与えるものです。この人の子父すなわち神が認証されたからです。」ヨハネ6:26〜27

(2) 子なる神

イエス・キリストは被造物ではありません。
天使ミカエルでもありません。イエス・キリストは神です
イエスは父なる神と同様に、永遠から存在された神です。
初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1
この箇所は、創世記1:1の「初め」の前(時が始まる前)の永遠の世界を垣間見させてくれる箇所です。永遠の世界において、父なる神とイエス・キリストは永遠の親しい交わりの中にありました。もちろん、聖霊なる神もともに極めて親密な信頼関係の中にありました。

人として来られたイエスは、神としては、イスラエルの先祖であるアブラハムの生まれる前から存在していると主張しています。ユダヤ人にとって、人間が自らを神だと宣言することは石打ちの刑に値します。殺される可能性を知った上で、イエスはご自身が神だと宣言しました。案の定殺されそうになりました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。 ヨハネ8:58−59
神は霊であって人間の肉眼では見ることができません。しかし、霊であり神であるイエスが、人となって来られたのです。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。ヨハネ1:18
イエス・キリストは神ですから、神として礼拝を受けられました

イエスが2歳未満の時にも東方の地の果てから来た祭司たちは、幼子イエスを神として礼拝しました。ひれ伏し拝むことは、その対象を神と認めた礼拝行為です。
その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだマタイ2:11
イエスは弟子たちがご自分を神として礼拝するのを認めていました。日本人と違ってユダヤ人たちは決して神以外のものを神として礼拝しない文化を持っています。身をかがめることも礼拝行為として、人にはしません。
そして、ふたりが船に乗り移ると、風がやんだ。そこで、船の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「たしかにあなたは神の子です」と言った。マタイ14:32−33
石打ちの刑を恐れず、イエスはご自身の神性を主張しました。事実を事実として主張したわけです。
わたしと父は一つです。」ユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた「わたしは父から出た多くのよいわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打にしようとするのですか。」ユダヤ人はイエスに答えた。「よいわざのためにあなたを石打にするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
ヨハネ10:30〜33
わたしと父とは一つ(エハッド)」つまり唯一だとしたのです。「聞きなさい。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神(エローへヌー)。主(ヤハウェ)はただひとり(エハッド)である。」申命記6:4の言葉を幼い時から叩き込まれているユダヤ人にとって、神への冒涜(ぼうとく)以外には聞こえませんでした。目の前にいるイエスは明らかに別の存在でありながら、ヤハウェと一つ(エハッド)と宣言したからでした。

高い教育を受け、常識のあるユダヤ人は、イエスを気が狂っている者とは見ませんでした。正気の人間が神だと主張したと受け取ったのです。あとは、イエスを神として受け入れるか、殺すかのどちらかでした。彼らにとっては事実を確認する理性よりも、残念ながら感情が上回って怒りに支配されてしまったのです。

トマスをはじめ、弟子たちも復活されたイエスを神と認め告白し、イエスは神としての礼拝を受け取られました。トマスはイエスの復活に対して一番懐疑的だったのですが、イエスが「私のヤハウェであり、私のエローヒーム」だと告白するに至りました。
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。ヨハネ20:28
イエス・キリストを否定し、イエスの弟子たちを迫害し殺していたパウロは、ダマスコの途上でイエスを救い主として受け入れました。イエスを伝えるために生涯を捧げ、イエスは「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」だと宣言し、殉教していきました。
父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
ローマ9:5
御子(イエス・キリスト)については、こう言われます。
神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。
ヘブル1:8
御子イエス・キリストは神です。
イエス・キリストは父なる神と等しい神としての本質と神性を持たれています。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。コロサイ2:9
キリストは神そのものでしたが、人として来てくださったのです。
初代のキリストに属する者たちのエクレーシアにおいて、その礼拝での賛美はイエス・キリストを神としてたたえていました。以下、その賛美歌の歌詞の一部が紹介されています。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 ピリピ2:6〜9
次回聖霊なる神について共に学びましょう。

今日もエクレーシアにようこそ!
イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。 Iペテロ1:1
ペテロは年下のイエスを神として受け入れました。そして、イエス・キリストのしもべだと自らを告白しています。三年半寝食を共にし、十字架と復活を目撃したペテロは、人間として来られたイエスを神として認めたのです。そして、イエスを神として伝えるために生涯をかけ、最後は逆さに十字架にかけられ殉教していったそうです。

私たちも、イエスに対する態度は二つに一つです。イエスを神として受け入れるか、受け入れないかです。福音書に描かれたイエスの人となりを見るときに、私はイエスが神以外の何者でもないと思います。イエスを神として信頼した51年間は、裏切られたことはありません。それ以上にますます信頼を深め、恵みの中に喜びを持って共に歩ませていただいています。

イエスを神として信頼し、今日も良い1日をお過ごしください!
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