「異言」と訳されたグローッサ γλῶσσα の徹底検証 10

聖書からのスピリチュアルライフ

異言シリーズの検証の前回からの続きです。Iコリント14:14〜19から検討します。

実を結ばない異言

もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。I コリント14:14

パウロはこれから「実を結ばない異言」について話そうとしています。すなわち、それは、「奇妙な異言」です。特徴は「霊で祈っている」けれども、「知性においては実を結ばない」、つまり知性が働いていない異言です。

「霊で祈っている」とはいっても、聖霊によって祈っているわけではなく、単なる感情や、恍惚状態で何やら祈っているというか、口走っているというものです。しかし、「知性は実を結んでいない」つまり、「知性」をつかさどる脳の部分が働いていないような異言です。

自分でも何を言っているかわからない、人にも神にも伝わらない異言です。感情的に高揚して気持ちは高ぶっていても、「実を結ばない」「結果が出せない祈り」です。

「もし祈るなら」と仮定で言っていますが、パウロ自身は、そのような奇妙な異言では祈りません。なぜなら、「奇妙な異言」での祈りは、実を結ばないと知っているからです。

パウロは「グローッサ」とは、祈るものではなく、一貫して話すもので福音を伝える「外国語」としています。

異言の祈りの解決策

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。コリント14:15

解決策は、「知性において祈る」ということです。

「知性」のギリシャ語 ノウス νοῦς は、理解、思考力、理解力、知力などを意味することばです。

祈りは、自分が何を言っているのかが、わかっていることが最低条件です。それは、当然のことです。たとえば、ろれつがまわらないほど酔っ払って、同じことをただ繰り返している人が、何時間も話しかけてくる人がいますが、会話になりません。

まして、神に祈る時はどうでしょう。異言を使うなら、何時間も祈れると言っている人がいますが、恍惚状態で祈ることは喜ばれるのでしょうか? 私たちは、思考力、理解力、知力をフルに使って祈るのです。

霊による祈り

わけのわからぬ異言で祈っているつもりの自分勝手な、肉による祈りではありません。「霊において祈り」とは、聖書に書かれた神の約束に基づいて「聖霊のとりなし」のうちに祈ることです。

しかし、うめきで祈るのではありません。うめきの異言というものもありません。言いようもない、深いうめきのうちにとりなしてくださるのは、聖霊ご自身です。(ローマ8:26)私たちではありません。ですから、私たちは、自分で一番理解できる言語を使い、心を込め知力をつくして、父なる神に向かって祈るのです。

祝福されても感謝できない異言

そうでないと、あなたが霊において祝福しても、座席に着いている異言を知らない人々は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。 17あなたの感謝は結構ですが、ほかの人を高めることはできません。 Iコリント14:16〜17 (私訳)

どんなに異言(わけのわからぬ、奇妙な異言)で祈ったり、祝福してもらっても、聞く人が意味がわからなければ、「ありがとう」と感謝できないのです。

「あなたのために祈ります。」という人が、私にわからない異言や外国語で祈ってくださったとしても、その祈りの言葉を理解できなければ、私はポカンとしているだけです。

わけのわからない異言を使って、いくら感謝しても、何を言っているのかわからないのですから、その祈りの内容に感謝もできなければ、同意して「アーメン(その通りです)」ということができません。

自分で感謝しているつもりになっているのは結構ですが、一緒にいる人たちを高めることはできません。

建てあげるとは?

「高める」「 建てる」のギリシャ語 オイコドメオー οἰκοδομέω は、オイコス οἶκος「家、建物、宮」を建てることから出来ている言葉です。

「徳を建てる」と「徳」が補われて訳されていますが、というよりは、聖霊の宮であり神殿である人々を、聖霊の住まいとしてふさわしく、建てあげるという意味合いの方が、適切と思われます。

「聖霊の賜物だから」と、わけのわからぬ奇妙な異言を使い、押し付ける祈りではなく、愛は、相手の側に立つのです。周りの人もわかる言葉を使い、感謝や賛美を共有し、アーメンと言えることが聖霊の宮を建てあげることにつながります。

聖霊の賜物が与えられているからと、「あなたのために異言で祈ります。」と言ってこられる英語圏の人が時々います。「もし、聖霊によって異言が与えられているのでしたら、日本語で祈ってください。」と求めるのは、無理なお願いでしょうか?

異言は話す外国語

私は、あなたがたのだれよりも多くの外国語を話すことを神に感謝していますが、 19教会(エクレーシア)では、外国語で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。 Iコリント14:18〜19 (私訳)

パウロは、おそらくギリシャ語を母国語とし、古典ヘブライ語、アラム語、そして、おそらくラテン語など、言語能力にも優れていた人でした。その言語を使い分けることで、福音宣教に役立てていました。聞く人々に合わせて、言語を使い分けていたのです。パウロは、その言語能力の才能を与えられていることを神に感謝しています。

それでも、教会では、言語の才能を誇ることなく、聞く人がわからない外国語で1万語を話すよりも、聞く人々の言語にあわせ、教えるため知性を働かせて、5つのことばを話したいと願っていたのです。

5つのことばの「ことば」とは、ロゴスλόγος であって、10節の「ことば」のフォネー φωνή である音声や音や、単語や、wordではないのです。神のメッセージとしてのロゴスであって、それは、イエス・キリストについてであり、わかりやすい福音、良い知らせのことです。5つのことばも、伝え話す言葉であって、祈りではありません。

今日もようこそウェブチャへ!

異言の徹底検証にお付き合いくださりありがとうございます。「グローッサ」もあと残り6カ所で終わろうとしています。おそらくあと2回でこのシリーズも終わるでしょう。

こんなに長くなるとは思ってもみなかったです。シリーズの1から10まで読まれた方々は、「異言」について、だいぶすっきりと理解されたのではないでしょうか?

異言をもとめ、感情の高揚を求めるのではなく、最も大事な「愛」という聖霊の賜物と聖霊の実を追求していきたいものです。

今日も良い1日をお過ごし下さい。
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