復活(7) 復活の3日目まで ハデスには人として行かれた

聖書、救い
イエス・キリストがハデスに遣わされたのは神としてですか?人としてですか?
ご一緒に考えてみてください。
もし、神としてイエスがハデスに行かれたのであれば、ハデスにいる霊魂にとってはとんでもないことになります。

1.  大審判の席に立たされたのと同じことになってしまう

もし、神としてイエスがハデスに行かれたのであれば、大審判の席に立たされたのと同じことになってしまうからです。ハデスは一瞬のうちにゲヘナとなってしまう事でしょう。神のご計画によれば、まだその裁きの時ではありません。したがって、神としてではなく、イエスは人としてハデスに遣わされたと思われます。

2. 栄光の神のお姿を罪ある者が見ることは死を意味している

神の友と言われたモーセでさえ「あなたはわたしの顔を見ることはできない」(出エジプト33:22、23)と言われました。そして、岩の裂け目に入れられ、神の手でおおわれ、神の栄光の後ろ姿をチラ見させてもらいました。なぜなら、「人は、神様の顔を見て、なお生きていることは出来ないから」です。
「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」 出エジプト33:21〜23

3. 地球上で人と会う時はいつも人のかたちだった

受肉前のイエス・キリストが地球上に来られ人と会う時にはいつも人のかたちで来られていました。アダムとエバに会う時にも、人の姿でエデンの園を歩かれていました。アダムと同じ目線で話しておられたことでしょう。(創世記3:8)3人の旅人がアブラハムを訪ねて来ました時が、そのうちの一人は「主」ヤハウェ(יהוה)ご自身でした(創世記18:20、22、26)。後の二人は御使いです。(創世記19:1)(ヘブル13:2)

4. 復活後も人の姿のままだった

復活した後のお姿はどうだったでしょうか?マリアが墓でお会いした時は、マリアは墓の管理人かと勘違いしました。その後イエスにすがりつくことが許されできました。(ヨハネ20:13〜18)マグダラのマリアと別のマリアは、イエスの足を抱いてイエスを礼拝しました。(マタイ28:9〜10)エマオの途上のクレオパたちも(ルカ24:13〜35)、旅人の一人とずっと思っていました。他の弟子たちと会う時も、イエス・キリストは人の姿のままで、天に戻られるまで人の姿を貫かれていたのです。

5. 地上再臨の時には神として来られる

やがてご再臨される時には神としての栄光のお姿で来られることでしょう。地上再臨される時には栄光に輝くお姿で来られ、神に敵対するエルサレムを取り囲む軍隊は御口から出る言葉で滅ぼされることになります。(啓示19:21)

以上のことから、イエス・キリストはハデスに遣わされた時点でも、人として神の国の福音を宣べ伝える重大なの目的を果たされていたのです。すなわち、天に戻られるまでは、人としての歩みを貫かれていました。人として人類の身代わりに十字架上で裁きを受け、人としてハデスに遣わされ、人として義とされ、ハデスにおいて「聖なる方」として父なる神に認められよみがえらされるのを待たれていたのです。

そして、その間に、ハデスに捕らえられたままの人々の霊魂に、人として福音を宣べ伝え続けていたのです。
イエスの霊魂において、キリストは捕らわれの霊魂たちのところに行って、福音を宣べ伝えられ(ケールッソー)たのです。 昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊魂たちのことです。わずか八人の人々が、この箱船の中で、水を通って救われたのです。 Iペテロ3:19〜20
 
今日もウェブチャを訪れてくださりありがとうございます。
新しい年号となりましたね。やがて神も世界を改める時が来ます。年号だけでなく、世界を一新しようとしておられるのです。最初の段階は、この地球上をエデンの園に戻すことです。そこに多くの方が招かれています。千年王国で共にエデンの園の再建プロジェクトに加わりませんか?あなたが今しているいろいろなことがそこでお役に立つ事でしょう。ぜひ、加わってください!

神は、とことん一人でも多くの人が救われるよう望んでおられます。一人でも滅びることを望まれません。しかし、救いは強制ではありません。最終的に自分の自由意志で決める事です。
ここまでしてくださる神の愛、キリストの捨て身みの愛にお気づきいただけますように、祈ります!

今日も良い1日をお過ごしください!
プッシュ通知を

コメント

タイトルとURLをコピーしました