聖霊をけがす罪?永遠に赦されない罪?

聖書、救い

質問コーナー:聖霊をけがす罪?永遠に赦されない罪?

「神をけがしたら赦されるのに、聖霊をけがした者は永遠に赦されずに永遠の罪って、どう言うことでしょうか?どうして神だと赦され、聖霊だと許されないのでしょうか?」

「聖霊に対する冒涜」の冒涜ぼうとくの意味

31だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。マタイ123132

「冒涜」のギリシャ語ブラスフェーミアβλασφημία「口汚い悪口、ののしり、不敬虔な言葉、汚す言葉」英語のblasphemyの語源です。「不敬虔な言葉」「汚す言葉」もわかりずらいですが31節では聖霊に「逆らうことを言う」と説明がされています。

聖霊を「けがす」とは?

28まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。29しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。30このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」マルコ32830

「けがす」のギリシャ語は、ブラスフェーメオーβλασφημέωβλασφημία(名詞)の動詞が使われて「侮辱的な言葉を浴びせる、〜に対して口汚くののしる言葉を浴びせる」英語のblasphemeの語源です。「けがす」という言葉はすでに死語に近い言葉で、日本語の「けがす(けがす)」と聖書の意味がずれています。

日本語の「けがす」辞書的定義では、①「触れる(する)べきでないものにそうして、そのものの清さを失わせる。美しいもの、清いものをよごし、きたなくする。」②「行いの節度を失って、醜くする。」③「(暴行などにより)女の貞操ていそうを破る。」

日本語の「けがす」の定義のずれ

日本語の定義①とは違って、聖霊は誰からもよごされたり、清さを失わされることはありません。聖なる神です。定義の②も③も当てはまりません。したがって、この場面では、「汚す、穢す」と言う訳語はふさわしくないので、聖霊を「悪く言う、侮辱する、口汚くののしる」などと訳した方が良いでしょう。

聖霊を口汚くののしり侮辱した例

24これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」マタイ1224

22また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

30このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。マルコ32230

聖霊を「ベルゼブル、悪霊どものかしら、汚れた霊」と口汚くののしったのです。しかし、ベルゼブルの意味がわからないと、どれほど口汚くののしったかがわかりませんね。

ベルゼブル(ベエルゼブルΒεελζεβούλ)のことばの起源は、バアル・ゼブール(ヘブル語のבַעַלזְבוּל)「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれるペリシテ人の偶像の神でした。雨と豊穣ほうじょうをもとめる嵐と慈雨「バアル神」の尊称の1つで、豊穣を祈願し性的な儀式が行われていたため、イスラエル人たちは、「バアル神」を似ている音で「バアル・ゼブブ」(ハエの王、糞山の王、糞の王)とけなしていたのです。

つまり、聖霊を「ベルゼブル」とパリサイ人や律法学者がののしった意味は、ヘブライ語で「バアル・ゼブブ」(ハエの王、糞山の王、糞の王)という意味で口汚くののしったのです。

本当は、父なる神、イエス・キリストへののしりも赦されない

36わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。37あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」マタイ123637

もし、あなたがイエス・キリストが救い主ですと信頼して、罪を赦されないならば、あなたの言葉で裁かれることになります。裁きの時に、「聖霊だけでなく、父なる神とイエス・キリストに対するあらゆるののしりの言葉」も罪に定められ裁かれます。それだけでなく「あらゆる無駄な言葉」について弁明しなけらばならないのです。神やイエス・キリストに対する冒涜が赦されるのは、救いを受けた人だけだということです。

聖霊へのののしりがなぜ、「永遠に赦されない罪」か?

あなたが救われるのは、「イエスは主です」と心底から信頼して祈るからです。それは霊的な戦いであり、聖霊の働きなのです。ちょうど悪霊が聖霊によって縛り付けられ、追い出されたように、救いのための聖霊の働きをこばむなら、どんな罪も赦されません。悪霊からも解放されません。その人は、神に対するどんな冒涜も、ののしりも赦されません。つまり、救いのための聖霊の働きを拒み、聖霊を悪霊だと口汚くののしる人は、救われないのです。

しかし、救われるまでの間に、神がわからないために、反対したり、ののしったりしたとしても、イエス・キリストに信頼して赦しを頂く者は、その口汚い言葉も、あわれみによって赦していただけるのです。それは神の一方的なあわれみであり、恵みです。現にこの時点で救いを拒んでいるパリサイ人たちや律法学者は罪に定められていました。イエスを救い主として受け入れるまで、罪に定められ永遠の刑罰は施行されます。

しかし、この後、パリサイ人の中からも、イエス・キリストを信じて救われる者たちが出ました。その人たちは聖霊の働きを受け入れたのです。パウロもその一人でした。

神への冒涜が最大の罪と最上級の赦し

日本人はあまりピンとこないことですが、神への冒涜の罪も赦していただけるというのは、ユダヤ人にとって「最上級の赦し」です。なぜなら、神への冒涜が最上級の罪だからです。大祭司カヤパがイエス・キリストが神を冒涜したとして、裂いてはならない大祭司の服を引き裂いたぐらい、最も重いの罪が神への冒瀆です。その罪が赦されるのは、イエスの救いを聖霊を通して受け入れる時です!

今日もウェブチャを訪れてくださりありがとうございます。

「聖霊を口汚くののしる罪」とは、あなたの救いのための聖霊の働きを拒む罪です。すでにイエス・キリストを救い主として受け入れた人には、関係ありません。もし、あなたがまだ、イエス・キリストを救い主として受け入れていないのでしたら、今でも受け入れてください。聖霊の働きかけを拒むなら、いずれ永遠の罪に定められることになるのですから。

平安のうちに良い1日をお過ごしください!
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