神の安息(7) ハデスからの復活(アナスタシス)

聖書、救い
イエス・キリストの十字架を通して、私たちの罪の償いがなされ、私たちが支払うべき罪の負債はもはやなくなりました。そのキリストが十字架で流された血は、完全に父なる神の怒りをなだめ、満足させるものでした。

その上で、イエスが十字架の後ハデスに行かされる必要があったのです。なぜでしょうか?

◉ イエスはよみがえられたのではない

よみがえられたのではなく、よみがえらされたのです。イエス自らよみがえることは簡単でしたが、それでは大切な目的と意味を失います。父なる神がご自分を承認しよみがえらせるまで、あえて待たれたのです。イエスが罪人だからハデスに行かされたのでは、もちろんありません。

全人類の罪を担われたので、そう思われる方もいると思います。全人類の罪の償いは、十字架の上で完全に果たされました。ハデスにイエスの霊魂が送られたのは、罪の償いが完全に終わっていたのかどうかの判定のためでもあります。イエスは罪のない「義なる者」であるのかどうかを、父なる神の義の基準で評価してもらう必要があったのです。これはとっても大事なポイントです。
あなたがた(ユダヤ人)は、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方(イエス)を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。 しかし神は、この方を死の苦しみの所から解き放って、復活さ(アニステーミἀνίστημι)せました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 使徒2:23〜24
死の苦しみの所」とは、ハデス(救われてないものが死後一時的に行かされる所)のことで、そこからイエス・キリストは解放されました。「死の苦しみ」から解き放たれたのではありません。この方(イエス・キリスト)はハデスにつながれていることなどありえないからです。

なぜ、ハデスにつながれていることなどあり得ないのですか? ハデスは、罪ある者が行って苦しみを受けるところだからです。罪が完全にない者は苦しみを受けることはないのです。そして、ハデスにつながれている理由がないのです。イエスは、ハデスの火の苦しみの中に置かれても何の害も受けませんでした。ちょうどシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが7倍も熱くされた火の燃える炉に投げ込まれた時のようです。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 ダニエル3:16〜17
火の燃えさかる炉の中にいるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのところへイエス・キリストは来てくださいました。
すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神の子のようだ。」
ダニエル3:25
と、ネブカデネザル王に言わせた第四人目の者こそ、7倍も熱くされた燃える炉の中で自由に動き回るイエス・キリストでした。「神々」の子ではなく、「神 エラーハ(אלהּ)」の子です。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神エラーハと28、29節と言っていますので、「神々」は適切ではありません。
それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」ダニエル3:26
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴたちのことを「いと高き神のしもべたち」とも言っています。「いと高き神」エール・エルヨーン(神エラーハ אלהּ 、最も高いイーライ עלּי)をネブカデネザルは認めているのです。

◉ イエスは墓からよみがえらされたのではない

墓からではなく、イエスはハデスからよみがえらされたのです。墓からよみがえるのはゾンビというイメージです。ゾンビなどこの世界に存在しません。もしゾンビが現れたなら、それは悪霊どもがゾンビを装っているだけです。近頃はゾンビを取り上げた映画やドラマが数多く作られ放映されています。それはイエス・キリストの「ハデスからの復活」を「死からよみがえった」として、ゾンビにすり替えようとする悪意があります。

イエス・キリストの身体はアリマタヤのヨセフの墓に3日目まで置かれていたのですが、霊魂は父なる神によりハデスに遣わされました。そして、3日目にイエス・キリストはハデスからよみがえらされたのです!
あなた(父なる神)は私(イエス・キリスト)の霊魂をハデスに捨てて置かず、あなたの聖者聖なる方が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。 使徒2:27〜29
「聖者」ではなく、「聖なる方」ホシオス(ὅσιος)です。聖者とは、人間を指しています。
辞書的定義は、「その宗教で、すぐれてえらい信仰者。特にキリスト教で尊敬されている、偉大な殉教者・信徒」となっています。イエス・キリストを父なる神もダビデも聖者とはしていません。イエス・キリストを人間に引き下げ聖者とするのは、冒涜的な誤訳です。イエスは、聖者でも聖人でもでもなく、「聖なる方」であり、神なのです。
汚れた霊である悪霊が、取りついた男を通して「イエスの正体は神の聖者だ。」と叫ばせました。それは嘘です。イエス・キリストの正体を人々に騙そうと叫んだ悪霊の言葉です。
だからイエスは、「黙れ。この人からでていけ。」としかりつけ、悪霊を追い出しました。
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。マルコ1:23〜25
父なる神は、ハデスに遣わされたイエス・キリストを「聖なる方」として認め評価しよみがえらせたのです。すなわち、父なる神がイエスを「聖なる方」と認めたゆえに、イエスの義を頂くことが出来るのです。

「義」とは、神の正しさの基準を完全に満足させることです。ただ、罪を犯さなかったといことだけではありません。父なる神の心のど真ん中を歩まれ、神のみ心を満たし、神の目にかなったという神の評価です。人間はどう頑張ってもその基準に達することができないばかりか、罪人として裁かれる立場なのです。
彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
使徒2:27、31~32
ダビデは、預言者としてイエス・キリストがハデスに遣わされることを預言しました。そして、キリストの復活を「ハデスからの復活だ!」と語ったのです。「神はこのイエスをハデスからよみがえらせました!」と弟子たちは人々に伝え、ハデスからのよみがえったイエスの復活の証人となったのです。墓からの復活ではないです。ゾンビにしないでください。

◉ ハデスに行ったのはもっと苦しむためではない

イエスがハデスに行ったのはもっと苦しむためであったというのは間違いです。私たちの身代わりとして、十字架の上で裁かれ刑罰の苦しみを全部味わってくださったのです。「贖いは完了した!償いは完済した!」のであって、それ以上償う必要はもはやないのです。ハデスは罪人が送られ苦しむ所ですが、罪のないイエスは対象外です。刑務所に罪人は入れられていますが、刑務所で働く看守や訪問者はそこにいても牢の外で動き、苦しむ事はないのと同じです。

身代わりの死、罪の償いはすでに完了しているのです。福音を述べ伝えるため、イエスが罪のないお方であるだけでなく、キリストは父なる神が受け入れた義なる者であると保証したのです。それこそが私たちが義とされる根拠です!それゆえイエス・キリストはハデスからよみがえらされたのです。「苦しみから」解放されたのではなく「苦しいの所」ハデスから解放されたのです。

◉ 十字架だけで義とされたわけではない

イエス・キリストの十字架だけで、イエスに信頼する者たちが義とされることになったのではありません。
父なる神の承認が必要だったのです。
イエスは、わたしたちの罪のために(ハデスに)送られ、わたしたちの義ためによみがえらされたのです。」(ローマ4:25)
もう一度確認しますが、イエス・キリストはハデスから自力で復活することができました。しかし、父なる神がキリストを罪なき者と承認するまで、あえて待たれていたのです。そして、父なる神がキリストを義と認め、ハデスから復活させ、その復活を通して私たちが義とされるためです。イエスのハデスからの復活がなければ、私たちが義とされる保証はありません。

私たちがどう感じるかは、問題ありません。私たちがどう評価するかも関係ありません。神がどのようにご覧になって、評価され認めるかが何よりも大事なのです。私たちの義はキリストのハデスからの復活を土台としているのです。私たちの義は、神の義です。神のお墨付きのイエス・キリストの義です。自分の行いではありません。ここに神の安息を得る秘訣があるのです。

イエス・キリストが贖いを成し終え、もはや死にもハデスにも支配されない義なる方と承認されたのです。イエス・キリストの完成し父なる神に承認された義をいただき、喜び安息に預かるのです。
ですから、信頼によって義ととされた私たちは、私の主イエス・キリストを通して、神と親密な交わりの中に平和を持ち続けていますローマ5:1
今日もウェブチャへようこそ!
うまく表現できず、回りくどい言い回しのところが多々あって申し訳ありません。でも、とっても大事なことばかりですから、ぜひ忍耐を持って注意深くお読みいただければありがたいです。

神の祝福と神の安息のうちに今日もお過ごしください!
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コメント

  1. 応為 より:
    いつもありがとうございます!
    聖句ですが、>ダニエル9:26 はダニエル3:26 だと思います。
    ローマ4:25は私の持っている聖書ですと『よみがえられました。』と自力でのよみがえりを意味する様な訳になっています。
    小さい事かも知れませんが、積み重なると嘘も真になってしまう可能性があるのが怖いですね!!
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