神の安息(6) 死後の世界からのメッセージ神の安息へ

聖書、救い
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 ところが、その門前にラザロという全身おできのあの貧しい者が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。ルカ16:19〜22
この話は、イエス・キリストがしてくれた実話です。ある金持ちに関しては、誰もが知っていましたが、生前とは対照的な悲惨な死後の世界に行ってしまったこともあって、イエスは名前を伏せて話されたのです。しかし、ラザロは生前、全身おできだらけで、治療も受けられず、貧しくていつも空腹で、起き上がる体力もなく横たわっていた人でした。

「あの貧しい者」は「神の祝福を受けていない」、もっと言うなら「神に呪われている」と言った因果応報的な考えで見下されていたようです。彼は死ぬと当然葬儀もなかったでしょう。金持ちは門前に遺体を置いておきたくないので、埋葬ではなくすぐに処理させたことでしょう。ラザロの遺体は汚れたものとして引きずられゲンヒノムの谷に捨てられたのかもしれません。ところが彼の霊魂を迎えに来たのはなんと天使たちでした。しかも、行き先は、アブラハムのふところでした。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。 ルカ16:23〜24
金持ちが死んで、豪華な葬儀の後葬られましたが、それは彼のからだでした。彼の霊魂が目を覚ました場所は、なんとハデス(救われていない者が一時的に行く苦しみの場所)だったのです。肉体を離れている霊魂でしたが、「苦しんでいる感覚がある」「苦しみながら目を覚ます」「目を上げて見る」「叫ぶことが出来る」「あわれみを乞い願う」「先祖アブラハムと認識する」「ラザロとわかる」「舌を冷やしてもらいたいと願う」「炎の中にいると認識する」「苦しくてたまらない」など、あたかも肉体があるかのような、生きている時と全く同じ感覚と認識と思考力を持っていることがわかります。興味深いのは身体がない、舌もないはずなのに、体の部位を認識して渇き苦しみもだえていることです。

私たちが思考し、自分を認識している本体は「脳」ではないのです。脳が電気的に反応するのを見て、脳が指令を出し、思考し、認識しているのだと思っています。確かに見るのも感じる感覚も、からだを通してです。五感のすべてと、理解力や記憶力などの本体は、霊魂であって、「脳」をはじめとする「からだの働き」ではないということです。身体は道具のようなもので、操っているのは霊魂なのです。コンピューターが古くなったり壊れたら買い換えますが、操作しているのは自分です。コンピューターがなくても自分で有り続けます。

使いたいと思うのに事故で手足を無くしても、自分であることには変わりがありません。しかし、亡くなった足をあるかのように感じるそうです。実は現在の容姿も体も、仮の姿であり、霊魂の入れ物にしか過ぎません。本来の自分の栄光の体を与えられるのは、イエス・キリストの空中再臨の時です。年とともにボロボロになっても大事なのは中身です。包紙や箱ではなく、中身の宝石や宝に価値があるのです。脳はコンピュータのようなもので、使いこなすのは自分自身です。
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』ルカ16:25〜26
「アブラハムのふところ」は慰めの場所ですが、ハデスは苦しみもだえる場所です。両者の間には越えることのできないギャップがあり、行き来はできません。ハデスからは、アブラハムのふところである慰めの場所がこの時点では見えたようです。見える分その違いに、どんなにか驚き絶望を感じたことでしょう。その上、水一滴さえも望めないとわかった金持ちの脳裏に、5人の兄弟ことが浮かびました。彼らがこんな苦しみの場所に来ないようにと、必死で考えだしたのです。
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 ルカ16:27〜28
自己中心であった金持ちの心の変化は、ものすごいと思います。他人の心配などしなかった金持ちが反省とともに兄弟への心配と思いやりで、いてもたってもいられないようにみえます。上から目線で命令していた金持ちが、しきりにお願し懇願しているのです。ハデスは苦しみを通して人の心が変えられる場所ともいえます。痛い思いをしてやっと、大切なものは何かを悟ったのです。
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者たちの中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人たちの中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
ルカ16:29〜31
確かにそうなのでしょう。アブラハムの正論であり冷たい答えに、金持ちはどれほどがっかりしたことでしょうか!余計に苦しみと後悔と絶望感に捕らえられたことでしょう。アブラハムの答えは、律法の時代における正統な答えでありその通りとも言えます。「聞き入れるかどうか」は、本人次第だからです。しかし、これで話は終わりません。続きがあるのです。

「だれか死んだ者の中から」と「たとえだれかが死人の中から」とは同じことを言っています。どちらも複数形です。「死んだ者たちの中から」「死人たちの中から」とは、「墓場から」ではありません。どちらも「ハデスから」を意味しています。新約聖書では「死人」と訳されている箇所は、わずかな例を除いてほとんど複数形であり、それは「ハデスにいる霊魂のこと」を指しています。

金持ちが願ったのは、だれかが墓からゾンビのように出てきて、話すことではないのです。このもだえ苦しんでいる火のハデスの中から、だれかがよみがえってメッセージを伝えてくれるようになることです。ハデスが実在することとその苦しみの実状を伝えてくれることです。

「モーセと預言者」とは今なら旧約聖書のことです。「旧約聖書の教えに耳を傾けたことのなかった」者たちが、今や「ハデスから復活した者」の話に耳を傾けているのです。しかもハデスに入ることがなように救われてきているのです。なぜなら、「ハデスからよみがらされて、伝えてくれた方」がいるからです。それは、イエス・キリストです。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。使徒1:3
ハデスからよみがえったイエスによる伝道」は40日間続きました。あの金持ちの願ったことは実現したのです。いや、あの金持ちだけではありません。ハデスで家族や親族や子孫や知人友人たちのことを思う者たちは皆、願っていたのです。その後、聖霊が弟子たちに下ると、彼らは力強く、イエスの十字架と復活を宣べ伝えました。もちろん、ハデスから復活したイエスを命をかけて宣べ伝えたのです。
彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを肉体を持つ者としてキリストを復活させ彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『の霊魂はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です 使徒2:30〜32
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どんなに幸せそうな生活をしていたとしても、もし、死後の世界における神の安息を持っていないなら、悲惨です。ハデスへ行ってしまった者たちがもしいるとしたなら、誰もがそこから出たいと思い、同時に誰もここへ来てほしくないと願っているのです。その彼らの叫び声が聞こえますか?少なくともイエス・キリストが代表して私たちに伝えているのですから、真剣に耳を傾けてみましょう。

神の安息を受け取り平安の中にお過ごしください!
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