ユダ(1) ユダは救われていない?

聖書、救い
あるサイトを見ていましたら「質問: ユダは赦されて/救われていたのですか?」というのがあって、回答が気になり読んでみて、びっくり、がっかり、悲しくなりました。

そのサイトの答え: 聖書は明らかにユダが救われていなかったと示しています。その根拠として、イエスご自身がユダのことを、言われた聖書箇所「人の子は自分について書いてある通りに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかった方がよかったのです。」(マタイ26:24)(中略)最終的な結論としては「ユダは信仰を持っていましたが真の救いのための信仰ではなかったのです。ユダは絶対に〝救われて″はいなかった」(以上)と結ばれていました。

1. その答えはとっても悲しい!

ユダの救いに関しては後日検討しますが、私が驚かされたのは、この回答はユダは救われていないと極めて断定的なこと、そして、この回答を読んでとても悲しいものを感じました。引用された聖書箇所は、ユダが救われていないという根拠になっていません。
「ユダが裏切り者だ!」と断罪し、TVで報道される凶悪犯人を観ながら、「悪いやつだ。私とは違う」と自分の弱さや非を棚にあげて、認めないのと似ているような…。ユダばかりが「裏切り者」とされますが、他の十一弟子たちも、私も、たいして変わりはないのです。そこで、聖書を読み返してみました。ご一緒に考えてみてください。

2. みんな裏切る可能性

みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
マタイ26:21〜22
イエスの言葉に弟子たち全員が、ドキッとしたようです。だれもが自信なく、不安そうに「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわる言ったのです。みんな裏切る可能性があり、誰一人「私ではない」と自信を持って言い切れない危うさをもっていた。それが十二弟子であり私たちです。自分のことを考えると自信なく不安になるのが、大事ではないでしょうか?イエスが捕らえられ、命の危険が我が身に迫ってきたとたん、弟子たちは命からがらイエスを見捨てて逃げ出してしまうのです。

3. 頑張ってついていた青年とペテロも

1) 素っ裸で逃げ出した青年マルコ
すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたマルコ14:50〜51
その青年とは、著者であるマルコでしょう。裸であろうがなかろうが、恥ずかしいなどと言っていられません。命には代えられません。マルコも頑張ってみたのですが、人間の力の限界です。やはり殺されるかと思うと、誰でも逃げ出したくなります。自分の恥をさらすようですが、良い子ぶらないで正直に自分の弱さを認めていくことが大切かと思います。
2) 弟子のリーダー格のペテロ
大祭司カヤパの中庭で焚き火を当たりながら、遠まきにですが、捕らえられたイエスに最後までついていったペテロでした。過越しの食事のときにはリーダーとしての風格で、
「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。 と言いきったのです。かっこいい!ところが、イエスの反応は、「がんばれ!」ではなく、極めて否定的なものでした。人間の弱さをご存知だからです。
「まことに、あなたに告げます。今夜、雄鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。弟子たちはみなそう言ったマタイ26:33 〜35

4. どんなに覚悟や堅い意志があったとしても弱い!

その決意は他の弟子たちもペテロと「同じ覚悟です!」と言ったのです。しかし、イエスが捕まると命からがら逃げてしまいました。ペテロは、「あなたも裏切ることになるよ」と言われても、イエスの言葉をさえぎるように否定して死を覚悟をしていると決意のほどを伝えました。その手前遠くから、恐る恐るイエスの様子を伺いにカヤパ官邸の中庭に入り込み、焚き火に当たる人に紛れて頑張ったペテロですが、女中の言葉にも震え上がってしまうのです。みんな恐怖を抱くものです。
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。ルカ22:33
その時からまだ、1日もいや半日も経っていないうちに起こってしまった裏切りです。

焚き火に当たる人々に混ざって、隠れるように一緒に座っていたペテロの顔を、まじまじと見ながら大祭司の家の女中の一人が、「この人も、イエスと一緒にいました。」推測して言っただけなのでしょう。しかし、バレてしまったと思ったペテロは平静をつくろいながら「いいえ、私はあの人を知らない。」と否定し、とぼけようと嘘をつきます。

しばくすると、他の男からも「お前も奴の仲間だ。」と言われ、「いや違う。」と否定します。1時間ほどして、また別の男が、
「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。訛りでわかるぞ。」 しかし、彼はのろいをかけて誓い始めた。「この男を私は知らないからだ!」と言った。(マルコ14:70〜71)

5. 知らない、関係ない、呪いをかけて誓っても愛されている弟子たち

3年以上もイエスと寝食を共にし、イエスのメッセージをすぐそばで聴き続けました。イエスがどのように貧しい人々、社会的に弱い立場の人々や、阻害されていた人たちにを持って接してこられたかを、身近に見てきました。イエスの優しさを体験してきた弟子たちです。そして、イエスが示された愛をいちばん身近に受けてきた人たちなのです。

ペテロは呪いを宣言し、誓いはじめた。「この男を私は知らないからだ!」の「呪う」は、ギリシャ語 アナセマチゾー ἀναθεματίζω 「呪われたものと宣言する」ということで、呪いと誓いという最強のアイテムを使って「この男を知らん!」ときっぱりと言い放ったわけです。

これは、たいへんな裏切りであり、ひょっとしてペテロは神の国に入れないことになりませんか?
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います マタイ10:32〜33

6. 弟子たちみんな失格者です。ユダだけではない!

このような弱さも、やがてご自身を見捨てていくこともご存知の上で、十二弟子たちは選ばれていたのです。ユダのやり方が目立っただけです。ユダが裏切らなかったなら、イエスは十字架につかなかったのでしょうか?違います。ユダが考える前に、すでにイエスに対する暗殺計画が立てられていたからです。
「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した
マタイ26:2〜4

7. それでも愛されているのです。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものをされたイエスは、そのを残るところなく示された。 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたヨハネ13:1〜2
ユダは1回裏切り、ペテロは3回裏切ったのです。それでも愛されています。無条件の愛だからです。

今日もウェブチャを訪れてくださりありがとうございます!
悪魔がユダの心にイエスを裏切る思いを入れていたとわかっていても、イエスのユダに対するは変わらないのです!あなたがどんな状態で、どんなに神様から離れていたとしても、あなたへのは少しも変わりません。大事なのは、その愛を受け取るかどうかだけです。

続いて、ユダが救われているか?救われたか?救われるのか?検討していきます。

変わることのないイエス様の愛を受け取りながら、今日も良い1日をお過ごしください。
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