
祈りながらも、不安にかられる時どうしますか?
果たして私の祈りに、神様は答えてくれるのだろうか?
祈りに答えていただけるほど、神様との信頼関係は果たして十分なのだろうか?
など、自分の不完全さが、とても祈りの答えをもらえるような状況ではないとか不安になります。
そう思い始めると、「ダメかもしれない」、「祈ったところでどうなるものでもない」、「御心は決まっているのだから」などと、否定的な思いが大きくなって、不安のほうが大きくなって火が燃えるように、心を支配していきます。
そんな時は、信頼の大楯で、悪い者(サタンや悪霊)が放つ「疑いの火矢」を、すぐに全て消し去ることです。そのまま「疑いの火矢」を放っておくと、せっかくはじめた祈りは挫折感で終わってしまいます。私たちの祈りを妨げる悪の勢力が、働き出すのです。
答えてもらえる根拠も土台も、私たちの側にはないのです。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。」という神の約束のことばに信頼して、疑いを打ち消し信頼し続けるのです。自分の不完全さ、信頼関係の危うさなど、心配する必要がないのです。
友人だという関係の深さではなく、あつかましく頼み続けるなら
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あつかましく頼み続けるなら(アナイデイア)、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。ルカ11:8
「あつかましく頼み続ける」:アナイデイアἀναίδεια「恥を知らぬ厚かましさ、しつこさ」を意味することばです。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あつかましく頼み続けるなら(アナイデイア)、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。ルカ11:7〜8
戸締りして寝てしまった友人は、当時の一般的な家庭では、1つの部屋に子供達を寝かしつけて、家族が雑魚寝状態です。ですから、親が起き上がるなら、せっかく眠っている子供を起こしてしまう事になりますから、無理だと答えるのは当然です。寝たふりをしないで、そう答えたのも、そのまま戸をたたき続けられたら、子供たちが目をさましてしまうからでしょう。
友人だという関係の深さではなく、あつかましく戸をたたき続けられることは、もっと迷惑になるからです。
神様は、寝ていませんし、私たちの祈りを迷惑などとは思いません。このたとえ話は、私たちが祈る時、不安にかられ、祈りを中断してしまうかもしれない気持ちをわかってくださった上で、私たちの立場に立ってそれでも求め続けなさいと教えるたとえ話なのです。「応え」を得るまで「あつかましく頼み続ける」そんな祈りの勧めです!
祈りが届いていない答えがないと感じる時、信頼して祈りをやめる事なく、あつかましく頼み続ける事です。
祈りが天井につっかえていて届かないように感じる時、それでもあつかましく祈り続けるのです。なかなか神様が答えてくれそうにないと感じる時、それでもあつかましく祈り続けるのです。神様が遠くに感じる時、それでもあつかましく祈り続けるのです。
私たちがどう感じるかは、祈りの応えの可能性と全く関係ありません。信頼して祈り続けているかどうかが大事なのです。
もし、何か祈りを中断していたなら、祈りの応えを期待して祈りを再開しましょう。
日毎の必要とするパンの祈りとは違って、「もてなしのパン」は、自分のためではなく、他の人の必要のためのパンです。急を要する「もてなしのパン」を私たちが求めて祈ることを神様は、喜んでくださっているのです。また、その「もてなしのパン」を与えることも神様の喜びなのです。
神はすでに祈りを聞いていてくださっています。あなたにとっての最適な応えを用意されています。
神が良しとされる時に、その結果を見る事でしょう。それまで、あつかましく頼み、祈り続けましょう。あつかましくしつこい愛の祈祷、愛祷を続けて、神の栄光を見させていただきましょう。
今日も良い1日をお過ごしください!
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