努力、頑張りで、嫌な自分を変えられる?

クリスチャンライフ
自分がより良く変えられるのは、私の努力?
頑張り?

真面目で頑張れる方が、けっこう間違ってしまいがちです。
間違わないでください。自分で自分を変えるのではありませんよ!
意志の強い人が、意志の強さで成長できるのではありません。
立派なクリスチャンになれる人と、なれない人がいるのではないのです。

どうしたら可能ですか?
私たちは、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
IIコリント3:18
 

1. 「変えられる」のです

変えるのではなく、受動形です。「変えられる」のです。
変える メタモルフォー μεταμορφόωは、
新約聖書で4回しか使われていません。そして、全部の箇所が受動形です。
イエス様が山の上で、栄光の雲に包まれ、
御姿が変えられ、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
マタイ17:2、マルコ9:2
イエスの変貌の様子をペテロとヤコブとヨハネが、目撃しました。

イエス様も栄光の姿に変えられたのです。
つくづく信仰の創始者であり、完成者に徹してくださったと思います。
私たちの模範ですね。

もうひとつは、ローマ12:2です。
「心の一新によって自分を変えなさい。」(新改訳3)
「心を新たにして自分を変えていただき 、…」(新共同)
ここでも、私たちは、自分を変えるのではなく、
新共同訳の「変えていただく(受動形)」が正しいのです。

イエス様も、栄光の姿に「変えられた(受動形)」ように
私たちも「変えられる」のです。
この意味は、醜い毛虫が蛹(さなぎ)になり蝶になる変化で使われます。
同じことが、イエス様の空中再臨の時に、私たちが携挙される瞬間に起こります。
それは、体の贖い、体の救いです。

しかし、今、内面における変革は始まっているのです。
いや、始まっているはずです。

変える メタモルフォー μεταμορφόωは、
英語のmetamorphoseの語源です。
どうひいき目にみても、蝶に似つかない毛虫やいも虫、
緑の葉を食い荒らしている毛虫やいも虫が、
ハネを持って、羽ばたくようになり、花の蜜を吸うようになる。
本当に驚かされる自然界の視覚教材ですね!
イエス様に似るようになるのは、根本的な変化が必要です。

2. 毛虫としての自覚?

それとも、
自分でなんとかなりますか?
なりません。

部分修正でなんとかいけますか?
ダメです。

自分の生まれつきのいいところを伸ばし、
悪いところを補ってもらえば、なんとかなる?
なりません!

生まれつき穏やかな人とか、
生まれつき真面目な人とか、
「生まれつきクリスチャンみたいな人って、有利ですよね?
スタート時点が違っているから、うらやましい!」
などと思っていないですか?

と思うのが落とし穴です。
継ぎ足しで人生やって、
「クリスチャンらしく、そこそこ」で、表面繕えれば、満足ですか!?
毛虫から毛を抜いて、
翅(はね)をつけて蝶(ちょう)に見せるようなものですよ。

これって、パッチワーク人生ですね。
形はそれらしく整って見えても、いつか、ほころび、修繕不能になります。
破れがひどくなる前に、やってほしいこと。
イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。
「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、
古い着物に継ぎをするようなことはしません。
そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、
また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。
そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、
皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
ルカ5:36〜39
そうなる前に
自分ではどうにもなりません!」と認め、自覚し、祈ることです。

3. 「主のように変えてください!」と願い求める

私たちが「イエス様のようになりたい」と願い始めるところから、
聖霊の働きが始まります。
聖霊なる神が私の内側より支え、
祈りにおいても、主を知ることにおいても、
あゆみにおいても助けてくださるのです。

柔和と訳されたプラオテスπρᾳότηςは聖霊の実でとして紹介された9つの実の、
8番目に出てきます。木の苗を植えても、実を結ぶまでに何年もかかるように
人格の変化も時間がかかるものです。
「あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、
私の父は栄光をお受けになるのです。」ヨハネ15:8
クリスチャンになったから、すぐにイエス様のようになるわけではないのです。
実はまだ欠けだらけです。救われた罪人に過ぎないのです。
アダム以来の古い性質、肉の思い、前より悪を慕う思いが出て来るのです。
「クリスチャンのくせに!」
と非難されても、「未だ、工事中です!」と答えましょう。
救われて間もないなら、「種をまいたところです!」と答えましょう。

4. 何度も「失敗と罪の言い表しと赦しときよめ」の繰り返し

御霊に満たされたからすぐに、実を結ぶわけではないのです。
至らない自分が示されるごとに、嫌な自分と向き合わされ
罪を言い表し、悔い改め、聖霊の助けをいただきながら、
矯正されつつ、多くの苦難の体験の中に、実が結ばれるのです。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方でしから、その罪を赦し
全ての悪くから私たちをきよめてくださいます。
  Iヨハネ1:9
失敗し、罪を言い表し、赦され、きよめられる、その繰り返しに、
嫌気がさして、自暴自棄にならないでください。
「なんと情けない、惨めな人間だろうか!」と、どん底で見上げると、
「あれぇ?イエス様がいない!」

いや、イエスのくびきをつけたあなたにとって、イエスはもはや、上にいません。
あなたのそばに、傍にいて同じくびきを負っていてくださるのです。
イエス様と一緒だという心のゆとりが、問題を正しく見られるようにしてくれます。

聖霊の働きで、どのような状況でも、バランスが取れ、ブレなくなり、耐え忍ぶ力が与えられます。
時には、試練と同時に脱出の道さえ見えてくるのです。
降ろせない重荷の目的は、あなたの人格がイエス様に似るためなのです。

実践の中、苦難の中でしか得られない、御霊の実を結ばせていただくために、
降ろせない重荷という試練が与えられているのです。

 
今日もウェブチャへようこそ!
 
自分を嫌いになって、嫌気が指すことの無いようにしてください。
神様は決してあなたを見離さず、もう無理だなどと、諦めませんよ。
あなたの内に結ばれる御霊の実を、期待し楽しみに待ってくださっています。

神様の忍耐と哀れみの中で、私も、嫌な自分に直面しながら、
今だに工事中です。
忍耐深い聖霊の働きによって、今も変えられていく過程にあります。
お互いにさらに聖霊に委ね、お任せしていきましょう。
傍にいてくださるイエス様を意識しつつ!
 
今日も良い一日をお過ごしください!
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