ご質問:ケールッソーについて

ご質問コーナー
ご質問がコメントにありました。

応為さん、いつもしっかりと調べながらウェブチャを読んでくださりありがとうございます。コメント欄に書ききれませんので、質問コーナーとしてこちらに載せさせていただき、みなさんとシェアさせていただきます。

応為さんの文面を『』で引用させていただきます。
『2017年度版で見ながら確認しました。
どこがケールッソーと訳されるのか分かり難い部分を質問させて下さい。』
『・マタイ4:17のケールッソーは、「宣教を開始し」の部分でしょうか。』
はい、「宣べ伝え(ケールッソー)はじめて」です。そして、23節は、御国の福音を宣べ伝える(ケールッソー)ことですから、17節でも単なる宣言ではありえませんね。
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。 マタイ4:23
『・ローマ2:21、これは”教えながら”でしょうか、”説きながら”の部分でしょうか?』
説きながら」(ケールッソー)です。
『・ガラテヤ2:2は、”人々に示しました”の部分でしょうか。』
「異邦人の間で私が宣べ伝えている(ケールッソー)福音」の方です。
『・ピリピ1:18は、”キリストが宣べ伝えられているのですから、”の部分でしょうか。』
はい、そうです。
『また、直接的な福音ではなく、自分にして頂いた奇跡を振れ回った、というような意味でのケールッソーが、マルコ1:45、マルコ5:20、マルコ7:36、ルカ8:39だと認識します。ルカ12:3は単純に「言い広められる」いう意味で”福音が”、ではない。』
マルコ1:45では、ツァラアトが消えてきよくなった人が、嬉しくって、黙っていられなくて、自分が癒されたことを「言い広め(ケールッソー)」たことです。それがツァラアトを癒された人にとっての「何よりの福音(喜びの知らせ)」だったからです。

マルコ5:20とルカ8:39では、レギオンという集団の悪霊にとりつかれて、社会から隔離され、なんの助けも得られず、墓場で鎖につながれ、自らを傷つけ、夜昼となく叫び続けていました。ゲラサ人の地、デカポリス地方でその男は、「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったか」(これこそが福音です)を町中に言い広め(ケールッソー)たのです。

マルコ7:36では、イエス様は再び、デカポリス地方に来られます。以前この地方の人は、豚ビジネスが大損害を受けたために、イエス・キリストを追い出したのです。しかし、今回は違っていました。レギオンにとりつかれた人が、「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったか」を「言い広め(ケールッソー)」た結果が出ています。今度は人々の方から、耳が聞こえず、口の聞けない人を連れてきてイエスに癒しを求めているのです。
そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらし(ケールッソー)た。 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。マルコ7:33〜37
耳が聞こえず、口の聞けない人にとって、耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになったことが福音です。「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったか」を「口止めされても言いたくなる。口止めされればされるほど、かえって言いふら(ケールッソー)したくなるのが福音です。救われた者にとって、宣べ伝え(ケールッソー)、言いふら(ケールッソー)したくなる福音です。
『啓示録5:2は御使いが巻物を開く者を探す”声”ですね。』
はい、その部分です。以下引用します。
また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて(ケールッソー)、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
封印を解く者がいないならば、この地球をサタンの支配下から取り戻すことができません。したがって、天使が必死に大声で何度も何度も「ふれ広めて言っている(ケールッソー)」のです。ケールッソーは現在形の分詞が使われています。「言っている」という単語はありません。ケールッソーに含まれています。私たちも一人でも多くの人が救われるように、ふれ広めてケールッソーしています。

ケールッソー60箇所の
『その他の部分は、直接福音を伝える際に使われていました。』
そうなのです。したがって Iペテロ3:19だけを「宣言した。」と主張するのは間違っていると言えます。おそらく、そう訳させる神学が間違っているためと思われます。
その霊魂において、キリストは捕らわれの霊魂たちのところに行って、みことばを宣べ伝えられ(ケールッソー)たのです。 昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊魂たちのことです。わずか八人の人々が、この箱船の中で、水を通って救われたのです。 Iペテロ3:19~20
『そうではない5~6か所を取って、「ケールッソー」は「エウアンゲリゾー」では無いので、ハデスで宣教したのではないという説が出るのですね。興味深いです。』
おそらくそうでしょう。60箇所中の明白に福音を宣べ伝える以外の『そうではない5~6か所』についてもご説明させていただきましたように、5〜6箇所で伝えているのは「福音」という言葉はなくても、それぞれの人にとっては体験した「福音」です。「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったか」これこそが福音の原点です。知識ではなく、本当にイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったのかを体験し味わっていなければ、ケールッソーが喜びではなく、義務となったり負担となったりするのではないでしょうか?

前にも書きましたように、「エウアンゲリゾー」の「伝える」よりも、「ケールッソー」のほうが相手にわかるように伝えていく意味合いが強いです。「ケールッソー」の結果、デカポリス地方の人々にイエスに対する態度が逆転したように、相手にわかってもらえるように伝えていくのが「ケールッソー」です。
『ここは”どちらでもいいじゃないか”、”そうだったらラッキー、くらいの感覚で留めておけば良い”という方もいらっしゃいますが、ハデスでイエス様が何をされていたのか、その結果起こった事とは・・・が間違って解釈、伝えられた場合、私は本当の救いというのは本物の御言葉からしか来ないと思っていますので、大問題だと感じます。続いて読んでいきたいと思います。』
本当にその通りです!私たちの土台は聖書であって、神学ではありません。神の言葉を土台としているのですから、聖書のみことばを正しく注意深く学ぶことは、とっても大事です。聖書は聖書を持って解釈するのであって、神学を持って解釈するのではありません。したがって、注意深く聖書を訳す責任が翻訳者たちにあります。また、私たちもお任せではなく、学び合って、学んだことをシェアし合っていきましょう。

今日もウェブチャを訪れて下さりありがとうございました!
みなさん、おかわりありませんか?こちらは、悪い風邪が流行っているようで、流行りに弱い私は2週間以上、はっきりしない状態が続き、家族で回し合ってしまいました。
色々なご質問や、読んでいて引っかかった聖書箇所、わからない聖書箇所などもコメントしてください。みなさんとシェアし合っていきましょう。
聖書の言葉が解き明かされる時、私たちの心はうちで燃えるものです。(ルカ24:32)
今日も良い1日をお過ごしください!
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