形骸化した集まりから「いのち」を求めて

クリスチャンライフ

いのちのない集まりに満足できない

イエス・キリストにあるいのちを体験している者は、慣習的な礼拝形式に対して、しだいに我慢ができなくなります。何かが足りないと気づき始めます。寝不足とか、自分の霊性が下がっているなら、別問題ですが。

正常な感覚で、正しい判断です。あなたの中に内住される聖霊も、あなたの霊魂も、そのような形だけの「いのち」のない集まり満足していません。

「いのち」は「いのち」から

聖書が単に解説される説教よりも、「いのち」を感じることができる集まりを願い、単なる聖書の知識を詰め込むこと以上に、聖霊がもたらす「いのち」を求めます。

「いのち」は「いのち」から伝わってきます。いのちのないところからは、いのちは得られません。形だけになります。「いのち」がないために、律法とルールでガチガチに人を縛りつけます。

しかし、聖霊が与える「いのち」は、単なる感情の盛り上がりではないのです。ライブコンサートでの熱狂的な感情の高揚と、「聖霊の満たし」は別物です。

「いのち」を体験している人から「いのち」は伝わります。

霊が燃やされる経験

イエス・キリストの復活の後、復活の事実を知らずに旅する二人の弟子たちのそばに、イエス・キリストが近づいていきます。初め、イエスがすぐそばに、ともに歩んでくださっているというのに、彼らの心は燃えませんでした。

しかし、神の旧約聖書のことばからイエス・キリストについて解き明かされた時、霊魂が燃やされたのです。「いのち」は「いのち」であるイエス・キリストから来るのです。今日においても同じです。

単なる説明ではなかった

彼らの「目が開かれ」(ルカ24:31)は、ギリシャ語ディアノイーゴーδιανογω の受け身で、「目が開かれる」「心が開かれる」という意味があります。感情ではなく、理性・知性の理解、判断から聖書の言葉を理解し、さらに「イエスだとわかる」ことです。

聖書を読み、聖霊の助けのうちに書かれていることを理性と知性を持って理解することが大切です。しかし、その段階で止まらないでください。

一歩進んで「イエスだとわかる」ことが、いのちを得ることであり、心が燃やされる体験につながります。異言で話しませんでした。奇跡を体験したわけでもありませんでした。

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった(ディアノイーゴー)間も、私たちの心は、内で燃えていたではないか。」

生活の中でいろいろな体験の中で、「これはイエスだ!」とわかることが多々あります。つまり普通の日常の中に「イエスを体験する」時、喜びが湧き上がり、感謝が溢れます。

また、主につながった者同士が集まり、話し、聖書を分かち合い祈る中に、主を体験します。

「いのち」の体験のためにあえて時間を取る

マルタの妹マリヤが、イエス・キリストの足元に座り誉められたのはイエスのことばをじっくりと聞きたいと、あえて時間を取ったからです。当時、女性が客人のもてなしの最中に、男たちに混ざって、男性の客人の話を聞くという習慣はなかったはずです。

マリヤの行動は、非難されるべき行動でした。むしろ、マルタのもてなしの奉仕のほうが、ほめられる行動でした。間違って欲しくない大事な点は、マルタと比較されて、マリヤがほめられたのではないということのです。

人と人を比較していません。マリヤはマルタとは別で、マリヤ自身の内側の必要の優先順位として、マリヤは良いものを選んだのです。この時のマリヤは「いのち」を必要としていたのです。

おそらくこの後、マリヤは喜んで立ちあがり、マルタの助けに向かったことでしょう。「いのち」をイエス・キリストからいただいたからです。

奉仕から「いのち」は生まれない

「いのち」を体験したものが、「いのち」で奉仕をすることができます。

「いのち」のないまま奉仕が優先されると、自分一人がすべてを背負いこんでいると錯覚し燃え尽きます。また、働いていない人たちへの不満が出てきて上から目線で物申す人になってしまいます。

挙げ句の果てに、祈りを使って、人を操作することさえしようとするのです。

マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、イエスのところにきて言った。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか?」… ルカ10:40

人との比較で心乱される

マルタも良いものを選んでいたのです。しかし、忙しさの中に、人と比較してしまい、余裕を失っていきます。喜びを持ってイエスをお迎えしていたのに、あれもこれもと心が乱されていったのです。

「イエス様に喜んでいただこう。」それがマルタの選んだ良いものだったはずです。人がどう評価しようが、出来栄えがどうなろうが、結果はどうであろうと、その動機を主イエスはうれしく受け取ってくださっていたのです。
…「マルタよ、マルタよ。あなたは、色々と周りの反応を気にして、心配し気を使っています。しかし、必要なことは1つだけです。マリヤはその良いものを選んだのです。」…ルカ10:41〜42 (私訳)
マルタを少しも責めていません「マルタよ、マルタよ。」と優しく呼びかけられました。イエスはマルタに「初めの良い動機からはずれ始めているよ。」と、注意をうながしているのです。

必要なことは一つだけ」そして、私たちも一つを選ばざるを得ないのです。「マリヤが良い一つを選んだように、マルタ、あなたも良い一つを選んだのですよ。

みことばを毎日熱心に学ぶ

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直な人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。 12そのため、彼らのうちの多くの者が(イエス・キリストに)信頼した。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。使徒17:11〜12 (私訳)

ベレヤのクリスチャンたちは、テサロニケの者たちよりも、「良い」人たちでした。「良い」と訳されますが、ギリシャ語のエウゲネースεγενςは、「生まれの良い、身分が高い」「高貴な」「気品の良い」「素直」との意味もあります。

しかし、やがて救われた者たちの中には、貴婦人や高貴な男性が少なくなかったとあるように、全員が育ちがよく、高貴だったわけではありません。ここで意味しているのは、生まれや身分の話ではなく、神との素直な良い関係を持っていたことを意味しています。

いのちを体験するために

1、「神様との関係」が「素直」であり、直に神に向かっている

2、非常に熱心にみことばを聞いたように、毎日聖書を熱心に読む

3、聞いたことをうのみにせず、自分で聖書を調べ確かめ納得する

現代の生活は忙しいからこそ、あえての時間をとって聖書を読む時間を取らなければ、ただ流されるだけです。あとで」はないあとで時間を取ろうと思っても疲れて聖書を開くこともできないものです。

忙しさやこの世の煩いが、神のみことばをうばい、ふさいでいくのです。神と面と向かって、聖書を熱心に読み、果たして正しいのかと調べることです。

なぜ、みことばを学ぶのですか?

知識のためではありません。知識は頭でっかちになるだけです。みことばを通して、「父なる神とイエス・キリストを知ること」が、目的であり、永遠のいのちです。

聖書から父なる神とイエス・キリストを知るように、読むことが大切です。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。 ヨハネ17:3

今日もウェブチャへようこそ!
主によって知らされたこと、学んだことは、独り占めしないでいろいろな人と分かち合って、どんどん話すようにしましょう。話すことであなたの「いのち」が人に伝わり、また、人が喜ぶことで、さらに「いのち」が燃やされます。

その中心に、イエス様は共にいてくだって「いのち」を体験していく。それがエクレーシアです!

今日も良い1日をお過ごしください!
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