「異言」と訳されたグローッサ γλῶσσα の徹底検証7

聖書からのスピリチュアルライフ
前回からの13章の検証の続きです。聖霊の賜物の定義の7番目からまとめていきましょう。

7、永遠に続くものと一時的なものがある

愛は決して絶えることがありません預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたます。Ⅰコリント13:8-10

「預言の賜物」の「賜物」という言葉は、Received Text(信頼できる写本)にはありません。「預言の賜物」という言い方は、13章でも、14章でもありません。パウロは単に「預言」と「異言」と言い換えています。

コリントの教会を混乱に陥れていたのは、「聖霊の賜物ではない」というパウロの含みがあるとも言えます。単なる預言と異言を取り上げているのです。聖霊は神としてご自身が持っておられる「預言の賜物」と「異言の賜物」を持ち続けておられますし、すたれさせてもいません。ただ、人間に与えないだけです。

「聖霊の賜物」である愛の「愛道」は永遠に続きます。しかし、預言と異言は一時的なのです。知識がすたれていく事は、毎日現実的に起こっていることです。新しい知識に飛びつき、新情報を得てもすぐに古くなってしまうのは日常のことです。「知識がすたれる」というだれもがわかる事例を通して、同じように、預言と異言はすたれるとパウロは言っています。

預言と異言はやみ、すたれる?

「異言ならばやみます。」の「やみます 」のギリシャ語は、パウーオー παύω止む、停止する、終わる」で、永久にという意味あいです。それ以上説明がいらないほど、あきらかです。

「知識ならばすたれます。」という同じ使い方で、「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」「預言ならばすたれます。」の すたれます」はカタルゲオー καταργέω無用にする、役に立たないようにする、活動しないようにする、機能を停止させる」という意味です。

これらには間違いないほどはっきりとした意味です。知識がすたれるように、預言も、無用になっているのです。昨日の天気を今日天気予報として聞いても、役に立たないのと同じです。

「すたれます」はカタルゲオー の実例

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子供っぽいことやめましたIコリント13:11

何だかわらない喃語を話す、片言の同じ言葉の繰り返し、子供っぽい話し方、自分のわがままを押し通す、思い通りにならないと泣き叫ぶ、床に転げ回る、状況や場をわきまえずに話し出すなど、子供っぽいこと幼稚なことをやめた(カタルゲオーの完了形)。

子供っぽいとか幼稚なこととは、わけのわからない異言をイメージしているのです。わけのわらぬ赤ん坊の難語のような異言同じ言葉の繰り返し聖霊に満たされたといって、床に転げ回る、挙げ句の果てに寝てしまう子供っぽい幼稚なこと

大人になれば、子供っぽいこと幼稚なことをやめる(カタルゲオー)のが、正常な、健全な大人ですと、パウロは言っているのです。

異言が止むのはなぜ?いつ?

完全なものが現れたらです。完全なものとは「三位一体の神」と「神の言葉である聖書」です。神は初めからおられますので、後から完全なものとして現れたのは聖書ということです。聖書の完成とともに、異言は止み、預言も無用となったのです。AD100年ごろには、啓示録を最後の書として聖書が完成しました。

聖書の中に人類が必要とする、神の全てのみこころが明記されています。聖書の中に、「イエス・キリストが救い主だと信頼した者に、聖霊が与えられている」ことが明記されています。したがって、救われた者が、もはや「いきなり多言語を話し出して、伝えた者や周りの人たちにしるしとして外国語を完璧に話してみせる」必要がなくなったのです。

もはや「異言」は止んでいる

現在、「異言」はやみ、終わっているのです。また、「預言」も無用なものとなっているのです。奇妙な異言もやんでいる聖霊を通していきなり完璧な外国語を話せるというしるしもやんでいるのです。

やんでいるものを、なぜ求めるのでしょうか?また、求めるように勧めるのは間違っていないでしょうか? 神が求めるように勧めていないのですから、「異言」を求めるのも勧めるのも間違っています。そして、現在、異言が話せる、異言で祈れるということが、おかしいということに気づいていない人がいます。

神が異言を与えると約束をしたのでは?

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。マルコ16:17~18

この約束にしたがって、神は約束を果たしました。使徒の働きの2章から始まり、聖書の完成をもって明らかに終わったものがあります。それは、聖霊が注がれた証拠として、新しい言葉を語る事でした。そして、聖書の完成の後に、新たに神が異言を与えるという約束は、聖書のどこにも書かれていません

逆に、異言はすでに止んでいるものだと書かれているのです。すでに止んでいるものをくださいと求めるのは間違っているのです。神は異言をもはや与えません。聖霊なる神も異言を与えません。

では、話せる人の異言はどこから来たの?

異言を話せる人、異言で祈れる人は、要注意です。聖霊が与えないのなら、その異言はどこから来たのでしょうか? 求めていきなり与えられましたか?なぜ、異言を求める必要があったのですか? それとも練習して異言で祈れるようになったのですか? もし、いきなり与えられたとするなら、それは聖霊ではなく、悪霊の可能性があります。

聖霊の賜物の定義から外れた悪霊の惑わし

あなたが求めるなら、あなたの許可が出たのですから、悪霊はあなたの口をのっとります。これは目撃した事実です。悪霊から解放された人からの証言でもあります。悪霊は、わけのわからない言葉が止めどなく出てくるようにできます。それで満たされたと錯覚させて、あなたを悪霊のわけのわからない異言の虜にしてしまうのです。

自分でわからない言葉を話し、祈っている中に、「アナセマイエーソウン」と言わせられていないですか? あるいはこれとは異なる言語で、同じ意味の内容が言わせられているかもしれません。この意味がわかりますか? あなたには自分で何を言っているのかわからないで祈っていませんか 危険です! しかし、悪霊は見事にあなたの口を乗っ取り、神を呪わせているのです。

霊を見分けてください「ハレルヤ」と言っている悪霊さえいるのです。だまされないようにしてください。神をほめたたえているのか、呪っているのかもわからない異言を口にだし、とめどもなく祈っているとしたら、あなたの意志を働かせてやめてください。幼稚なことをやめて下さい

もし、やめられないなら、完全に乗っ取られています。「イエス・キリストの名によって命じる。私の口を乗っ取る悪霊よ出て行け!」と宣言して下さい。解放されるまで、やめられるまで、このことばを心から信じて宣言し、悪霊に命じて下さい。イエス・キリストの名によって完全に悪霊から解放されますように、祈ります。

今日もウェブチャへようこそ

新しいスタートは、気持ちの良いものです。そして、確かな目標に向かっていることが大事ですね。求めなさいと約束されたことを求めていきましょう。しかし、約束されていないものも、すでにやんで終わっているものは、求めても与えられません。

偽物にご注意ください。サタン や悪霊はますます、惑わそうねらっています。聖霊の愛、愛道を求めていきましょう。

今日も愛道で良い1日をお過ごし下さい!

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