コリントの手紙の異言の徹底検証の前に
グローッサが使われているのは、Iコリント12,13,14章に集中して、20回使われています。使徒の働きを除くなら、パウロの書簡や新約聖書にはありません。これは不思議なことです。実は、「異言問題」は、コリントの教会にあった、大きな問題の一つでした。その問題解決のためにパウロは、「グローッサ」について詳しく、コリント人への手紙で取り上げているのです。これから、言語としてのグローッサの出てくる順に「外国語」なのか、「わけのわからない異言」なのかをこれから検証していきます。
言語としてのグローッサは、Iコリント12章には10、28、30節の3箇所で使われています。グローッサについて書く前に、パウロは「聖霊の賜物」がどのようなものであるかを明らかにしています。
「聖霊の賜物」の理解が鍵
コリント教会に聖霊が与えていないまがいものがある現実を、パウロは問題視していました。それを判別するために、「聖霊の賜物とは何か」をきちんと理解している必要がありました。なぜなら、「聖霊の賜物」について正しく理解していることが、本物と偽物の違いを見分ける鍵だからです。今日の一部の教会に入り込んできている「まやかしの異言の混乱」から解放されるために、私たちも聖霊が与えてくださる賜物とはどのようなものかを、しっかりとつかんでいる必要があります。そこで、初めに「聖霊の賜物」の定義を見てみましょう。
1、聖霊の賜物にはいろいろな種類がある
さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。 Iコリント12:4その具体例としては、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、外国語、外国語の通訳する力など(Iコリント12:8〜10)と、挙げれられています。つまり、いろいろな種類があるのであって、「異言」だけを特別視する考えは間違っていると言えます。
2、みんなの益となるために
しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。Iコリント12:7自分が楽しむためでも、自分の感情が盛り上がるためでも、また、自分が恍惚状態に浸るためのものでもないのです。すなわち、自分の信仰を成長させるためでも、自分が神に愛されていることを知るためでもありません。 自分が神の臨在に包まれるためでもないのです。
聖霊は私たちを励まし、成長を助け、神の愛がより理解できるように神の愛を注ぎ、助けて導いてくださいます。それは聖霊の働きです。しかし、「聖霊の賜物」は、違うのです。自分のために与えられるのではないのです。
「自分の、自分の、自分の…」ではなく、「みなの益のため」です。その賜物によって、自分ではなく、周りの人が助けられたり、人の役に立つためのものです。そうでないものは、聖霊から来たものではないといえます。
3、聖霊の賜物は人によって異なる
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ聖霊を通して知識のことばが与えられ、 また別の人には同じ御霊の中にあって信仰が与えられ、他の人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 別の人には力強いわざ、別の人には預言、別の人には霊を見分ける力、別の人には外国語、別の人にはある種の外国語の通訳の才能が与えられています。 Iコリント12:8~10「ある人」にはから始まって、「他の人には」「別の人には」「別の人には」…とあえて繰り返されているように、聖霊が人それぞれに別の賜物を分け与えてくださっていることが強調されています。
「全員が『怪しい異言を話し、祈るべきだ』と勧めたり、教えたりすること」は間違っているということです。
体の肢体や器官のようにいろいろな賜物があり、人によって与えられるものが違っています。与える方は聖霊です。目立つ賜物だけが「聖霊の賜物」ではありません。
4、聖霊が分け与えてくださるものである
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。 Iコリント12:11人が生み出すものでも、努力して得るものでもありません。聖霊が与えるものです。主導権は、聖霊であって、牧師でも司祭でも教皇でもないのです。聖霊が与えてくださらないのなら、与えられないのです。
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリスト(のからだ)もそれと同様です。 Iコリント12:12一つの体に多くの部分や器官があるように、キリストの体であるエクレーシアにもいろいろな器官があり働きが分かれているのです。それが、キリストの体である教会(エクレーシア)です。一人一人のメンバーに、異なるいろいろな賜物が分け与えられているのがバランスの取れた体です。同じ賜物だけが必要とされているわけではありません。
5、調和のために与えられている
賜物の違いは、調和のため、お互いがいたわり合うためです。自分だけ暴走するのではないのです。自分が優れているとか、自分が強いとか、自分が祝されているとかを誇るためではないのです。むしろ、他のために自分に賜物が与えられているという責任と使命を理解し、へりくだった思いで皆に仕えていくのです。お互いを必要としていると受け入れ合うのです。自分の欠けを認め、お互いの欠けを補い合うのです。その自覚と実践を通して調和が生まれるのです。
12章のグローッサは全て外国語
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、それから力ある働き、いやしの賜物、助けること、治めること、ある種の外国語などです。 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが力ある働きをするでしょうか。 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みながある種の外国語を話すでしょうか。みなが通訳をするでしょうか。Iコリント12:28〜3012章のグローッサは、「怪しい異言」ではなく、すべて「ある種の外国語」であり、「その通訳」が初代の教会において聖霊の賜物として、一時的に与えられました。それは、ユダヤ人から始まり異邦人へと福音が伝えられ、救いが広がり、聖霊の内住を明らかに理解させるために必要なものでした。
次回は問題の13章を検証します。お楽しみ!
今日もウェブチャへようこそ
「私には聖霊の賜物が何も与えられていない!」などと、嘆く必要は全くありません。「異言」で祈れないから、「異言」を話せないから救われていないかもしれないなどと、救いを疑い心配する必要は、全くありません。
イエス・キリストを私の救い主だと信頼したあなたはもう、神の子であり、あなたの内側に聖霊が住んでくださっているのです。奇跡体験ではなく、聖書の約束の言葉に信頼していきましょう!
今日も良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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