「異言」と訳されたグローッサ  γλῶσσα  の徹底検証 1

異言の祈りの危険性

ギリシャ語のグローッサ  γλῶσσα の聖書で使われた意味

新約聖書での使用されているのは、47箇所です。意味は、RT(Received Text)と呼ばれる最も信頼できる新約聖書のギリシャ語の定本の、巻末のギリシャ語の辞書によれば、

1、「舌」;言語を発する器官としての「舌」、「舌上のもの」
2、「言語、国語、言葉」
3、言語によって区別された「国民」「人々」
以上の3つの意味だけです。

グローッサをこれらの三つのどの意味に理解し翻訳するかは、文脈により、聖書全体から判断し理解する以外にありません。冠詞もある、なし、単数か複数かも、どの意味でも使われていますので、意味の決定には関係ありませんので。

エクスタシー異言という意味は仮説にすぎない

しかし、日本語の聖書で、グローッサを「異言」すなわち、「エクスタシー状態で発せられる普通の人には解らない音声」と、判断し訳すのは、あくまでも仮説です。そればかりか、「異言」とするのは、誤解を招く不適切な造語で、混乱の元となっているように思います。

新約聖書のでの使用箇所は47箇所の使用例

議論の余地がないであろうと思われる意味の明らかな箇所から見てみましょう。

1、「舌」としての箇所は、以下の16箇所

個人的に、調べられるように箇所を、列挙しておきます。マルコ7:33、35、16:17、ルカ1:64、使徒2:3、2:26、ローマ3:13、14:11、ピリピ2:11、ヤコブ1:26、3:5、6、8、Iペテロ3:10、Iヨハネ3:18(口先で)、啓示録16:10

3、言語によって区別された「国民」「人々」の箇所は、以下の7箇所

啓示録5:9、7:9、10:11、11:9、13:9、14:6、17:15で、「あらゆる国語、言語」の国民や人々を指しています。

2、「言語、国語、言葉」の箇所を、注意深く検討

その箇所を本来の意味ではない「外国語」ではなく、仮説に基づいて「異言」と訳すのは正しいのでしょうか?それとも「言語、国語、言葉」「異国語、外国語」と本来の意味で訳せば良いのかを、再検討してみましょう。果たして文脈からわかるのでしょうか? 「わけのわからない異言」ではないと私の方で判断したところは、「外国語」と直してみましたので、それで意味が通るのかどうかご検討ください。

聖霊がくだり「異言」でなく「外国語」を話した 事例 1

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことば(外国語)で話しだした。使徒 2:4    
ヘブライ語から通訳された15以上の外国の国語でした(使徒2:7〜13)。聞く外国の人たちが完全に理解できた完璧な自国の言語でした。しかも、流暢に話していましたから、酔っ払っているのかと誤解されるほど、饒舌に話していたのです。

ヘブライ語がわからない人たちは、通訳する弟子たちを通して、メッセージの内容を自分たちの言葉で理解できました。

私たちのいろいろな国の言葉で、神の大きなみわざを語るのを聞こうとは!」(使徒2:11)と聞く人たちを驚かせました。理性を働かせて、ペテロのヘブライ語のメッセージを聞き、一人が一つの外国語を担当し、それぞれの国の言葉通訳しました。

使徒の働きにおいて、2章の五旬節前の初代の弟子たちは、イエスを救い主(キリスト)だと信頼していても、まだ聖霊がくだっていませんでした。

なぜなら、七周の祭りの五旬節に聖霊がくだることは、神のご計画の一部でした。聖霊は、見ることができませんでしたから、聖霊が注がれる体験を、感覚的に経験する必要がありました。

「激しい風が吹いてくるような響き」と共に「炎のように分けられた舌」が彼らの頭の上にとどまることを通して、見えない霊的な世界を見せました。また、無学なガリラヤ人たちがいきなり外国語を完璧に話して通訳する奇蹟を通して、聖霊が下ったことを理解させたのです。

もはや、聖霊が与えられたという特別なしるしや奇蹟を見なくても、「救われた者たちには聖霊が注がれるとる」という真理を、使徒たちと初代の弟子たちは、この時受け入れることができたのです。

預言者ヨエルによって語られていた事

『神は言われる。 終わりの日々に、わたしの霊をすべての肉なる者に注ぐ。すると、あなたがたの息子たちや娘たちは預言し、未成年たち幻を見、老人たちは夢を見る。これらの日々に、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。使徒2:16~18(ヨエル2:28~29
それは、預言者ヨエルの預言の成就だとペテロは、弟子たちとユダヤ人たちに説明し、弟子たちはみな理解しました。(使徒2:14~40)聖霊が注がれたら、「異言を話す」とか「異言で祈る」とか、ヨエルの預言にもないのです。

その日のペテロのメッセージを通して、三千人ほどが救われました。ペテロのメッセージも正しい完璧な外国語で通訳されていたので、彼らは正確に理解し、イエスがキリストだと信頼して救われたのです。

救われ、聖霊を受けても異言を話さなかった

新たに加わった三千人の弟子たちが「異言を語った」とか「異言で祈った」とか、記録されていません。その必要がないのです。3千人の新たに救われた者たちも、聖霊を受けているのは事実だからです。

また、あえて外国語を話す必要もありません。国にもどってから、それぞれの育った国や地方の身につけている自国語で同胞に伝道すればよかったのです。祈りも母国語で祈れば良いのです。
ペテロのことばを喜んで受け入れた者は、浸された(水のバプテスマを受けた)。その日、三千人ほどが加えられた。使徒2:41
神のご計画により、五旬節前の弟子たちは、イエス・キリストに信頼しても、聖霊が注がれるのは、待たなければならなかったのです。しかし、その日以来、「イエス・キリストに信頼した瞬間に、聖霊を受ける」という理解は当たり前の事実になっていたからです。

聖霊が注がれることは、旧約の時代では、特定の人に一定期間だけという極めて限定されているものでした。それは、「王、預言者、祭司」と限られていました。ところが今や、だれでも「イエス・キリストに信頼した瞬間に、聖霊を受ける」のです。しかも、聖霊はパラクレートスとして、いつも共にいてくださるのです。

今日もウェブチャへようこそ!
「あなたは聖霊をすでに受けられていますか?」「イエス・キリストが私の救い主だ。」と心から信頼して、天地の創り主なる神に祈ってください。その瞬間、聖霊はあなたの内側に来てくださいます
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