ラオデキヤ教会(2) 一度入ると出るに出られぬ心地良さ?

聖書からのスピリチュアルライフ

イエス・キリストの視点でラオデキヤ教会の問題を掘り下げると

人ごとではなく、自分自身を点検する機会を持ってみましょう。

内部の人から見ると、ラオデキヤの集まりには、一度入ると出るに出られない一種独特の状態、居心地が良いとさえ思えてしまう「なまぬるさ」があったのではないでしょうか?

もしラオデキヤのエクレーシアに参加したなら、そこそこ良い教会だなあと思ってしまうかもしれません。貧しい人がいるわけでもなく、問題を抱えている人がいるわけでもなく、むしろ、何の不自由もなく、みなさんが満ち足りているようにみえます。

イエス・キリストによって満ち足りていたのではなく、この世の富に

というのは、あなたは、「私は金持ちとなり、富が増し加わり、必要に欠けるものが何もない」と言っている。さらにあなたは、自分がみじめで、あわれで、こじき同然で、精神的に盲目で、ボロボロの服装であることを知らない。啓示録317(私訳)

「私は金持ちとなり」とは、「私は自分の努力で私の富を得たという誇り」を意味しています。

「必要にかけるものが何もない、何の不自由もない」という無意味な誇りで満足しています。それは、脂肪でふくれあがった心が、正常な感覚を失い麻痺した状態なのです。

神様の視点は全く違います。

「あなたは、自分がみじめで、あわれで、こじき同然で、盲目で、ボロのみすぼらしい服装であることを知らない。」5つも悪い修飾語の連続!

「みじめだ」タライポーロスταλαίπωροςとは、「苦労やトラブルが続いている状態」の「みじめさ、哀れさ」を意味しています。実際は、色々とトラブルがあるのに自分でなんとかなると思っているので、祈ることがないのです。

「あわれだ」エレエイノスλεεινόςとは、「気の毒だ、悲惨だ、あわれむべきだ」という意味ですから、ラオデキヤの人たちが、感じていることと正反対ですね。自分たちの霊魂のあわれな状態に対して意識がないのです。

「貧しい」プトークオスπτωχός「こじき同然の」「困窮している」という強い意味ですが、「自分たちは金持ちだ」と思っているのです。しかし、「霊魂の豊かさは財産にあるのではないのです。」(ルカ1215

「裸だ」グムノスγυμνός  とは、「ボロの服しか着ていない、下着だけ」という意味です。

ラオデキヤの都市は織物(羊毛)産業が盛んでしたから、特産品としては黒い羊毛の衣服が売られていましたし、皆さん結構リッチな服装だったと思われます。それでも、「ボロの服しか着ていない下着だけ」とみすぼらしさを指摘しています。

また、医学の学校もありましたから、耳の治療薬の産業もあり、また、目のふちに塗りこむ目の軟膏は、目薬として高い評価を受けていました。それに反して、「盲目だ」とまで指摘されています。

「盲目だ」とは、ツフォロスτυφλός「身体的に盲目」と「精神的に盲目」の両方を意味しますが、ここでは精神的に盲目状態である事について神は叱責しているのです。

問題点は、自己満足という心の麻痺状態!

自分の真の姿が見えなくなっている盲目状態ではないでしょうか?

病んでいるのに自覚症状がないという深刻な状態ではないでしょうか?

霊の目が曇って霊的なことが見えなくなっているのにもかかわらず、見えていると思っていることではないでしょうか?

この世の物質的な豊かさに恵まれている中で、霊魂の貧しさに気がついていないことではないでしょうか?

霊魂が貧しく、こじき同然に困窮していると自覚し、渇き、祈り求める者は幸いなのです。マタイ5:3

しかし、物質的に生活が安定していることから、表面的な自己満足で、霊魂の渇きの満たしを祈り求めることもない状態です。「神の満たしを求め、豊かさの中から満たして下さるように求める祈りも渇望もない」ことが問題なのです。

迫害もない、試練もない、毎日が平穏無事であることに、慣れてしまい、感謝もなく、緊張感もなく、信仰生活が惰性的になっているのが問題です。

渇きもなければ満たしもない。祈りもなければ、答えもない。

ほめことばを何1つかけてもらえないだけでなく、霊魂の欠乏状態が自分にわからない、にぶーい、祈りの必要も感じない状態です。

「なまぬるく吐き出したい」と言われても、何の反応も反発もない。

「悔い改めなさい」と言われても「何を?」と言われているのかわからない、罪が示されて悲しむこともない状態!

教会生活をそつなくこなしてはいますが、表面的な信仰生活がただ長いだけ。

満たされていても、イエス・キリストとつながっていないのではラオデキヤです。

長く祈れるようになったとしても、自分の自己満足だけでは、御霊に満たされているのではなく、自分の感情や感覚に浸っているだけです。

目に見える働きを忙しくしていても、敬虔を装っているだけでは、ラオデキヤです。

自己満足と心の麻痺問題、自分の問題点に気がつかない問題。

そこまで鈍くなっているラオデキヤですが、イエス・キリストは見捨てないのです。愛するがゆえに叱責しているのです。

自分のうちの鈍さ、麻痺状態を悔い改めていきましょう。そんな自分を認めて良いのです。罪深さを知らされることはありがたいことなのです。叱責されるのは愛されているからです。

厳しく叱責するほどに愛して下さるイエス様に感謝しましょう。

今日も良い1日をお過ごしください!
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