啓示録1章5b、6節 三重の祝福に生きる

啓示録(黙示録)

啓示録1章5b、6節 三重の祝福に生きる
 5b 私たちを愛してくださった方に、
私たちの罪から、私たちをご自身の血で洗ってくださった方に、
6 さらに、彼(イエス・キリスト)の父なる神(ヤハウェ)のために、
私たちを王たち、祭司たちとしてくださった方に、
この方(イエス・キリスト)に、
栄光と力が永遠にありますように。アーメン。

5節の後半から続くヨハネの礼拝のことば。
私たちを愛してくださった方
愛してくださった
これは、日本語や英語にない、
ギリシャ語独特のアオリスト時制だ。
アオリスト自制とは、「完了・継続・反復などの意味ではなく、単なる過去の動作・状態・出来事を表す。」

イエスが、私たちを愛してくださった。(アオリスト)
イエスの十字架は過去に起こった出来事であるが、その事実は、永遠にかわらない!

ビルの土台のパイル(杭)ように、私の人生に1度打ち込まれた。
イエスの十字架は歴史の中に打ち込まれた。
だれも動かすことができない事実。
イエスの命は私たちのために、投げ出されたのだ。

その時、サタンは脳天を打ち砕かれた。
サタンのどんな攻撃においても、私たちは打ち勝つことができる。
私たちの罪の一切が、処理された。
私たちへのどんな不利な証言も、十字架に貼り付けにされている。

私たちは愛された。そして、愛され続けている。
どんな疑いも不信も、一掃されるイエスの愛の事実。

私たちの罪から、私たちをご自身の血で洗ってくださった方
洗ってくださった」これもアオリスト!
私たちは完全に罪赦され、洗われた。今も続く不変の事実。

しかし、私たちの心は、時々嫌な過去を思い出させる。
良い心と書いて良心だが、その良心が間違うことがある。
邪悪な良心」となって、罪赦されている自分に、(ヘブル10:22)
「赦されていない」「そんなことで赦されるわけがない」と攻め立てる。

壊れたアラームのようだ。
神が赦したといっているのに、
それと反対のことを思うなら、もはや壊れたアラーム、
邪悪な良心、修理が必要だ。

どのように邪悪な良心を正常にもどすか?
罪の赦しのためにイエスの血は十字架で流された。
その事実を認めるだけでなく、
あなたの心にイエスの血を振りかける必要がある。

旧約時代、罪の汚れから解放されるために、あえて水で洗われたように。レビ記15章
罪責感を処理するために、イエスの血を振りかけることをおすすめする。
衣服に着いた血痕が、落ちにくいように、
振りかけたイエスの血が、私に付着し、
もう取れないイエスの血痕として、イメージする。

イエスの血で洗うというのは、旧約にはないことだ。
私の邪悪な良心は、振りかけるぐらいでは治らないから
イエスの血で洗う必要があった。

罪にどっぷり浸かっていた私を、
イエスがご自身の血で、私たちをすでに洗ってくださった!

何度も洗いなおす必要がない!
イエスの血で深紅に染まった私を、いつも見て確認し、自覚する!

もはやだれも元の汚れに
戻すことはできない。
だから、どんな罪責感からも解放される。
私は赦された!
赦されている!

彼(イエス・キリスト)の父なる神(ヤハウェ)のために、
私たちを王たち、祭司たちとしてくださった方

なんの資格も価値もなかった罪人が、赦されただけでなく、
敵が王とされ、祭司とされるとは!
なんと身にあまる、光栄!

バシレウスβασιλεύςとは王、王国の両方の意味がある。
私たちはメシア(キリスト)の王国とされてた。(アオリスト)

イエス・キリストのご支配の下にある王国とは、
王が国を統治し、国家と国民を守るように、
私たちは、日々イエスの完全な守りの中にある。
イエスが私の代わりに、戦われ、私を完全に守られる。

自分で考え、策の練り、人を押しのけるヤコブから、
イスラエル(神が戦う)と改名するようとヤコブは神に言われた。
ヤコブはそう言われても、しばらくヤコブのままだった。
私はどうか?

また、まもなく実現する千年王国において、
キリストとともに私たちは、として国を治めることが任せられる。
それは、現在どのように、キリストに仕えているかの度合いに応じて。

私たちは王とされた。(アオリスト)
だから、王位を未だ、受けていなくても、
王子としての自覚を持って生きたらどうだろう。

やがて私たちが王となることが、ミナのたとえ話の真相だ。ルカ19章11~27節
どう生きたかに応じて、町が任される。
現在の生き方は、未来につながっている。
今の苦しみも、悩みも、痛みも、
辛い人間関係も、ぜ〜んぶ、天でのプライズギビングに
そして、地上でのメシア王国につながっている。

キリストのために、生きること。
それは、どんなかたちであれ、キリストのためにと
あなたがしたことの一切が、やがて正しく評価される。

人が見ていようが、人が悪く評価しようが関係ない!
たとえなんの成果がでなくてもいい、
結果ではない。
成果でもない。
キリストのために、どう生きたかが評価される。

私たちは祭司ヒエレウスἱερεύςとされている。(アオリスト)
イエス・キリストは大祭司である。
そして、私たちは、祭司とされている。
すでにイエスは、私たちを「王・祭司」とされた。

神にいつでも自由に近づくことができ、祈ることができる特権がある。
祭司の勤めの中心は、礼拝と祈り。
自分自身を霊のいけにえとして
神に喜ばれる生きた供え物として捧げるところかからはじまる。ローマ12:1

すでに祭司とされているが、私たちが自分を祭司として自覚しているのか?

「神の恵みにふさわしく応答する」のが、礼拝だ。
当然、感謝があり、賛美があり、奉仕がある。
自分に与えられた時間を、才能を、お金を、財産を、
「どのようにわたしのために使ってくれるのかな?」と
神は期待しておられる。

あなたの判断で、どう使うか?
そこに誰からも強制はない。あってはならない。
自発的なものが全てだ。

なによりも祭司の務めは、「祈り」
兄弟姉妹のために、家族のために、
知人友人のために祈れるのは、祭司であるあなたである。
とりなしの祈りをしていこう。
祭司に与えられた特権を大いに用いていこう。

これら三重の祝福を与えてくださったイエス・キリストに、
この方に、栄光と力が永遠にありますように。アーメン

今日もウェブチャへようこそ!
王・祭司である、みなさんの祈りと働きが
祝福となって、周りの人を癒していく1日となりますように祈ります!


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